- 魏志倭人伝によると、邪馬台国の卑弥呼は
238年、魏に使者を送り、皇帝から親魏倭王に任じられた。
歴史作家の関裕二氏が、大和説、九州説、その他をダイジェストとしてまとめ、自説を展開している。
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関裕二氏の説は・・・ (重要な用語にはWikipediaにリンクを貼っておきました)
三世紀当時、畿内・東海・北陸・山陰・吉備の首長層の連合体が纒向 (まきむく、奈良県桜井市)に集結し、日本で最も栄えていたことは考古学的に証明されている。
纒向は前方後円墳の発祥の地であり、これは各地の墓の様式を寄せ集めて定型化したものだと。
この頃、畿内のヤマトは筑紫平野を見下ろす高台の盆地で軍事的に重要な大分県日田市 まで勢力を伸ばしていた。北部九州にありながら山陰や畿内の土器が見られる小迫辻原遺跡 が、その事実を物語っている。
もう一方の勢力である北部九州は、2世紀後半の倭国大乱でそれまでの鉄の独占状態を失っていた。日田をヤマトに取られると、博多周辺は海と山からのはさみうちを想定しなければならない。そこで拠点を、筑後川を押える要衝の地、高良山 (福岡県久留米市)とその南の山門 (やまと)の地に移した。(山門は邪馬台国北部九州説の最有力地。)
このような状況下、北部九州の女首長卑弥呼は、起死回生の手段に打って出た。それが畿内のヤマトと偽って魏に朝貢し、倭国王に任じられて魏の後ろ盾を得ることであった。
これに対して畿内のヤマトが取った手段は、邪馬台国つぶしのため、卑弥呼に匹敵するほどのシャーマン、トヨ を送り込むことであった。
日本書紀によると、熊襲征伐に仲哀天皇とその妻神功皇后 が送られたとされている。
神功皇后の周りには、豊浦宮、豊玉姫、豊姫などトヨがあふれている、と。(…私見ではちょっと苦しい。)
したがって、神功皇后=トヨであろう。(藤原不比等が編纂した日本書紀では、藤原氏に不都合な事実は歪曲されているとの前提。)
しかし、小迫辻原遺跡は、3世紀後半に焼け落ち消滅する。
親魏倭王の称号を獲得したトヨが力をつけ過ぎたことを怖れた畿内のヤマトはトヨを裏切り、トヨは豊後水道を抜け、日本海伝いに逃げたと推理している・・・。
さらに、推理は蘇我氏と出雲の関係、神武東征とは、などなどにも及ぶ。
かなり強引と思われる推理も多々見受けられるのも事実であるが、正史である日本書紀は藤原氏にとって不都合な事実を歪曲していると考える(→ブログで紹介した 、藤原鎌足=百済王子説)一方、荒唐無稽と思われる神話にも何らかの事実が隠されている、さらに各地の寺社伝承には歴史的事実が埋もれている、という立場から、正当な歴史学者では思いつかないような仮説を展開する関氏の著作は、素人の歴史好き向けの読み物として、面白いです。