執筆者 : 相田 一人相田みつを美術館館長
プロの条件
「プロという以上は、三回以上個展を開いてなくてはいけない。
三回以上個展を開いている人間をプロという」
プロについての父の明確な定義です。
父から聞いた話で近年、特に美術館を設立してからよく思い出します。
「第一回目の個展というのは、皆が祝ってくれるものだ。
友だちや親戚がお祝い代わりに作品を買ってくれる。
つまり義理買いだ。それで、そこそこは売れる。経費もまかなえる。
二回目の個展は、一回目に買わなかった人たちが、
今度はお付き合いをするかと少しは買ってくれる。
これも義理買いだが、いくらかは収入になる。
ところが、三回目となるともう誰も義理では買ってくれないものだ。
絵でも書でも同じだが、作品に力がないと、魅力がないと見向きもされない。
厳しいがそれが現実だ」
父がそう言っていたのは、すでに何度も個展を重ねていた頃でした。
ですから、自分自身の体験もあったでしょうが、
周囲の人たちの様々なケースを見て来た上での言葉でしょう。
むりをしないでなまけない
「わたしは弱いにんげんだから」
とあるように、父は自分の弱さにとても敏感でした。
この年になって私も何となく分かってきたのですが、
世の中には、センサーが人間の強さに向けて発達している人と、
反対に父のように弱さに感応するタイプと
二種類の人がいるのではないでしょうか。
前者が前向きとか後者が後ろ向きとか単純に割り切れるものではありませんが、
父の場合は、弱さを踏まえた上でどう生きたらいいのかということが
テーマともいえます。
「どんな仕事でも、それが世の中にとって必要とされるものであるならば、
必ず生かされる」
父が時折漏らしていた言葉は、今美術館を運営している私には、
とても近しいものです。
いちばん大事なことに
さて、定収入はもちろん、臨時収入すらもない生活が長く続きます。
父の生活がようやく少し安定するのは還暦を過ぎてからです。
しかし、父は意気軒昂でした。
どうでもいいものは
なぜなら、この作品の言葉通りに生きたからです。
やるべきことの優先順位がはっきりとしていたのです。
筆や硯、そして墨や紙という道具類には、
事情が許さなくても最高のものを使いました。
墨や紙は、昔の方が相対的に高価でした。
現在、一反3万円の紙は、父が若かった4,50年前もほとんど同じ値段だったのです。
母が、思い出話によく言います。
「昭和30年代、大卒の初任給が15,000円くらいの時代があってね、
その頃、お父さんは、調子がいいと一日で3万円分くらい紙を使ってしまうことが
よくあったんだよ」
現在の大卒の初任給が20万前後でしょうから、
当時の3万円というのは、40万くらいに相当するのでしょうか。
なぜ、そんなに紙代がかさんだかというと、
父が納得いくまで書き込んだからでもあるのですが、
練習用の紙というものを一切使わなかったせいでもあるのです。
「何枚も何枚も書いていく中で、
どの時点でいい書が書けるかはわからない。
もし、うまくいったと思った時、それが練習用の安い紙であれば、
作品として仕立てることができない。
だから、自分は、常に本番用の紙しか使わない」
やはり、練習用の紙では、真剣勝負というふうにはなれなかったのでしょう。
こんなところにも、父のプロ意識の強さが感じられます。
母には筆に関しても、思い出があります。
「ある時東京に展覧会を見に行くといって、
残り少ないお金を全部持って出かけたことがあってね。
ところが、帰って来たら、新しい筆を持って興奮していたんだよ。
展覧会を見た後で、懇意にしている筆屋さんに寄ったらしくてね。
そうしたら、いい筆があったので、矢も盾もたまらなくなったらしく、
お金が入ったらすぐに払うからと約束して持ち帰ったという話でね。
その時、家には5円しかないような状態だったんだけど、
お父さんがあまりにも嬉しそうな顔をしているので、
結局何も言えなくてね、困ったものだった」
お金があろうがなかろうが、
父は仕事に関するものには糸目をつけませんでした。
それがなくてはいい書を書けないからです。
我慢するのがアマチュアで、
何を置いても手に入れるのがプロだということなのでしょう。
そんな父にとって書を書くために最も必要なもの、それはアトリエでした。
(続く)



