今年も盛大に行われた「相馬野馬追」。
その帰途、常磐線を使って、いまだに避難指示が解除されていない帰還困難区域を通ってきました。
昨年までは野馬追の行われた南相馬市・原ノ町駅から、楢葉町・竜田駅まで代行バスだったのですが、今年からは浪江街・浪江駅まで列車で行けるようになり、浪江~竜田間のみが代行バスとなりました。
列車で行けるようになったとはいえ、戻っている住民は少ないようで、駅前も閑散として、目立つのは野馬追からいわきや東京方面に帰る観光客ばかりでした。
パトロール中のお巡りさんが驚いて、代行バスの列に並ぶ観光客に話しかけてきたほどでした。(福島県警のお巡りさん、3人の若い人でしたが、やたらフレンドリーでした。(^^;))
浪江駅周辺で目立ったのは、明らかに築浅の、震災当時にはおそらく出来たばかりだったであろうアパートやマンション。どうやら同じ不動産会社が建てたもののようでした。地域の再開発を目指していたと思われるのですが、今や周囲は雑草で覆われ、そのままではとても住めそうにありません。この会社はどうなってしまったのかと考えると胸が痛みます。
浪江から先は、代行バスによる運行。
出発前に、放射線量が高い区域を通るため窓を開けないように注意がありました。
この高圧線の先が、福島第一原子力発電所。
走っているバスからなのでわかりにくですが、黒く見えるのが除染のため取り除かれた土を入れた袋です。同じような光景は何度も出てきました。
派手な外装の建物ですが、今や見る影もありません。
国道沿いの飲食店やパチンコ店、コンビニ、ドラッグストアなどは、ドライバー相手の商売のため、外装を派手にしている所が大半です。それが震災から6年も放置され、雑草が生い茂ったり、外壁が破損したりしている店が多数目につきました。
また住居でも古いものは劣化が進み、崩れかけているものすら少なくありませんでした。
途中で停車した富岡町・富岡駅。
こちらは駅舎も新しく、駅周辺でも新しい建物が建てられていました。(写真後方の鉄骨も、建設中のマンションのようでした。あるいは、原発で働く人のためのものかもしれません。)
富岡駅からさらにバスは走り、楢葉町・竜田駅に到着。
町の明るい話題を集めた掲示板が駅構内にありました。
その一方、線量計も。
竜田駅周辺も静かな印象はぬぐえず、電灯が点いている家がある一方、昨年よりも破損が進んでいる家もありました。
また駅のすぐ前の商店も、シャッターが完全に曲がってしまっていて、再開のめどは立っていないようでした。
ここからは常磐線でいわきへ、そして東京まで帰れるようになりました。
私が相馬野馬追を最初に見たのは震災翌年の2012年。
それから毎年、通っています。
2012年には常磐線がまだ寸断状態で、原ノ町からは仙台か福島経由で帰るしかなかったのですが、だんだんに鉄道も復旧し、今では代行バス輸送も原発すぐ脇の浪江~竜田の区間のみとなりました。
その意味で復興は進んでいるといえるのですが、訪れるたびごとに建物の破損が進んでいる所も多数見受けられるのも事実です。
いまだに避難指示が続いているところはもちろん、解除された区域でも医療・教育・店舗など生活に必要なインフラがなかなか整備されず、長らく避難生活をしていた人が帰還するのは非常に困難だといわれています。
阪神大震災の時も、復興が進んだ所と進まない所の落差が問題となりました。
東日本大震災も同じことがいえるのですが、特に原発事故が起きたことにより、そもそも帰還できない地域、長期間帰還できなかった地域が生じたことで、問題は複雑になったといえます。
非常に困難で、簡単には解決できない問題ですが、特に関東地方に住んでいる者が、この問題に無関心でいることは許されないと私は思います。
福島第一原子力発電所は東京電力の発電所で、そこで生み出された電気は全て首都圏をはじめとする関東地方で消費されていました。
原発に対する意見は様々ですが、関東の人間がその恩恵を受け、結果として犠牲になったのが福島の、特に浜通の住民であることは動かせません。
確かに毎日の生活は大変で、始終福島のことを考えている訳にもいかないのですが、この地域のことを忘れず、できるだけその復興に関心を持ち、時として行動することは、私たちにとってほとんど義務のようなものだと考えています。