こうして何かを書くときに
わたしはひとつの世界、それは記憶かもしれないし、
今ここにわたしの中にある世界の姿かもしれないのだが、
その中をあちこちと歩く。

そのようなときに、人の言葉の中に、
その人を見て(もちろんそれは全部ではないのだが)、
そのような中に美しい心を見ることがよくある。

わたしたちの言葉はいくつもの層が重なっている。
言いたいことをどう説明するか、あるいは手段として表現するか、

考えや思いと言ったものも言葉がひとつの現実であるかのように思えば、
その上に、つまり言葉を含む現実の上に重なっているものだから、
どんどんと言葉の層が積み重なる。

それでもそのような積み重なりと関係なく、
そこで表現しようと試みる、話そうと、書こうと試みる、その筆のタッチの中に、
時折、層の積み重なりと関係なく、
その人が現れる。

美しい言葉でも、そうでなくても、
普通のことを捉える目と言葉の中に、
美しい心を見る。


それは言葉を磨くこととは別のこと。
伝える為の試みとして磨くことはそれは多くのことを伝える手段ではあり、
それはそれでそのように試みる人の思いを感じるのだが、

そうでなくても、
ただ、そのままで美しい心。

きっと、多くの層が積み重ならないほうがそれが見えやすいのだろう。

そうした心をわたしは時折見るだけではあるけれど、
(多くは普通の目立たない人たち)
そのような機会があったことを心から感謝する。