東京太郎 NYをゆく

東京太郎 NYをゆく

東京とNYを落ち着きなく行き来する東京太郎が、心にうつりゆくよしなし事をそこはかとなく徒然なるままに綴ります。

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10代後半の頃だっただろうか…。

 

次第に社会・世の中の仕組みとその矛盾点が見え始め、何度か思春期なりの失望をした記憶がある。ま、多感な時期だったということもあったのかもしれない。

 

要は…

 

「なぜこんな理不尽・不合理が平気でまかり通って放置されているのだろうか…?」

 

といった漠然とした不信感だったように思う。この辺はどなたでも似たような心境に至ったことはあるはず。

 

 

その後、時間は過ぎ、月日の流れとともに…ある時、その輪郭がおぼろげながら多少つかめたように思えたことがあった。

 

「理不尽・不合理がまかり通って放置されている背景には…それなりの理由があるのではないだろうか?」

 

という至極まっとうな帰結である(笑)。

 

 

では、その理由ってヤツは一体何なのだろうか…?

 

 

少年期から青年期に入って、それが自分なりのちっぽけだけど当人にとっては大問題にも思えたテーマでもあった。日常ルーティーンから外れた時などに、ふとどこからか忍び寄って来るとりとめもない疑念である。

 

そしてそれは程度の違いこそあれ、現在まで続いてるような気がする。完全に納得できる解答なんぞ恐らく存在しないのであろう。ただ、思春期と比べれば、依然ぼんやりとはしていても大枠はつかみかけてるような実感はある。

 

 

前置きが長くなってしまった(笑)。結論から言うと…

 

「その理不尽・不合理が好都合な人達がいる」

 

という何とも難しい問題である。要は利権になっているのだ。その規模が大きくなって団体や組織になるとより根深く、さらには権力と多少なりとも結びつくとそれは一層複雑で容易に変更できない存在となり、時には巨悪にまで至ったりもする。

 

厄介なことは、通常このような利権構造に光が当たる機会が著しく少ないということである。とりわけ、大規模で長期化している場合にはその傾向が強い。

 

本来ならこのような問題に光を当てる社会的役割を担う存在こそがマスコミであろう。ただ、近年、問題にされつつもあるようだが、今やマスコミは報道する自由よりも報道しない自由の方をより優先してると思える事案も多々見受けられる。

 

思春期の頃には、

 

「なぜ出番であるはずのマスコミはこんな時に沈黙しているのだろうか?」

 

と不可解に感じていた時期もあった。ただ、今は多少はわかる。ほとんどの場合、マスコミもその利権構造の一部に組み込まれてしまっているわけだ。スポンサーのご都合には逆らえず、自身のネガティブな情報を白日の下に晒したくないのは人の世の常なのだろう。

 

だけど…と思う。これを現実だとか大人社会だとかしたり顔で切り捨ててしまうには、どうやら僕の血潮はまだまだ熱過ぎるようだ。

 

 

さてさて…。

 

 

2020年から始まったコロナ騒動…こちらではもうマスクを着用してる人はほとんど見掛けなくなり、公的機関でも着用を求められることはほぼなくなっています。マスコミでその話題を聞く機会も激減して、街中で話題になることもめっきり減りました。大袈裟に言うと、急速に風化してもう過去のこととして片付けられつつあるような体感すらあります。

 

他方、日本ではまだコロナ禍が歴然と声高に叫ばれていて…マスクが外せない日々が続いているのだとか…。

 

何よりもこのコロナ騒動で気の毒なのは…子供達であることは言を俟たないでしょう。大事な成長期に、行動を制約されてマスクを強要されて…最近では政府が熱心にワクチン接種を推奨しているのだとか…?オイオイ~!

 

 

 

人間よ、もう止せ、こんな事は(高村光太郎風)。

独立記念日と聞くといつも思い出すことがある。

 

やはり日曜日だったように思う。子供の頃、親子で昼メシを食っていた時に、何気なくつけていたテレビでアメリカ独立記念日のイベントのニュースをやっていた。

 

ニュースを見ながら特に深く考えることもなく、童心の素朴な疑問で昼メシを食いながらふとオヤジに尋ねたのだ。

 

 

「日本の独立記念日っていつなの?」

 

 

・・・・・・

 

 

その時の状況が忘れられない。つい先程まで陽気にメシを食いながらワイワイ話していたオヤジが急に黙って考え込んでしまったのだ。

 

「え?え~?!」

 

…と言ったまま塞ぎ込んでしまった。何かまずいことでも聞いたのかと思って子供心に妙に心配になったのを覚えている。

 

食卓を後に中座して立ち去り、別の部屋に行って辞書やら百科事典(?)やらアレコレ調べものをし始めた。今なら恐らくネットでアレコレと検索していたことだろうが、当時はそんなこともできなかった昭和の光景である。

 

 

・・・・・・

 

 

15分か20分程度経っただろうか…再登場したオヤジは見たこともないような神妙で悲しそうな顔で…

 

「ゴメン…わからない…。」

 

とだけ答えた。その後は、淡々と昼メシを食っていつも通りの日常に戻って時間は過ぎたのだった。

 

 

 

翌日、オヤジは普段通りの調子ではあったが、気にはなっていたのか…

 

「しっかり勉強して…将来わかったらお父さんとお母さんに教えてくれよ!」

 

と頼まれてすっかりまとめられてしまった(笑)。それから随分時間が経ってしまったが、そんなオヤジはもういない。

 

 

当時、子供心にそれ程難しいことなのだろうか…?と不思議で仕方がなかったが、今にして思えばオヤジの心境も理解できなくはない気がしている。

 

 

解答としてはいくつか候補があったのだろうと思う。いくつか考えてみると…

 

 

 

【解答①】日本は侵略されてないので、日本には独立記念日は存在しない

 

→これがどちらかと言えば通説的な見解なのであろうか?日本は大規模な植民地支配や長期的な侵略を受けたことがない為に、ある種常に「独立していた」。その為に、独立記念日の概念自体が存在し得ないのだ…ナドナド。アメリカの場合は、イギリスの植民地だった歴史があり、イギリスから独立した時の記念日こそが独立記念日なのだ…という所であろう。

 

だが、そうは言うものの…第二次世界大戦後に敗戦国としてアメリカを中心とした連合国の占領を受けたんじゃなかったっけ?直接統治ではなく間接統治であったとしても…?GHQってなんだったっけ?

 

 

 

【解答②】日本は第二次世界大戦に負けて占領を受けたが、その後のサンフランシスコ平和条約で主権を回復した

 

→学問的見解や歴史学の通説的見解は与り知らぬが…こういう理解も出来そうである。日本は長年侵略を受けたことはなかったが、大戦直後の一時期だけは例外だと。つまり、サンフランシスコ平和条約が締結されて有効に施行された日こそが日本の独立記念日ともいえる…ナドナド。ウ~ン…余り聞かないなぁ…。

 

 

 

【解答③】日本は敗戦後から現在に至るまで、安保と外交を中心に依然として事実上アメリカの支配下にある。従って、実はいまだに独立国とは言えない。

 

→かなり飛躍した見解かもしれないが…ある種的を得ているようにも思える。少なくとも安保と外交はいまだにアメリカの影響が強く、独立した主権は回復できてないとも言えなくもない。それ以外にもいまだに司法・行政・立法の統治機構内でも様々な形でアメリカの意向を無視できない状況が続いているとの話もよく聞く。そもそも、国家の根幹とも言える安保と外交を他国に依存していて…いっぱしの独立した主権国と言えるのだろうか…?

 

 

・・・・・・

 

 

今となっては推測の域を出ないが、恐らくこんな感じで色々な見解がオヤジの脳裏のアチコチに浮かんでは消えていたに違いない。子供の素朴な疑問は、考えてみるとある種鋭くもあり、なんとも恐ろしいものである(笑)。

 

 

さて、もし今、逆に誰かに聞かれたらどう答えればいいのだろうか…?

 

 

独立記念日の賑わいの気配を感じつつ、その時の態度をいまだに決めきれずにいる。

 

 

 

 

 

 子供の頃、まだ小学校の低学年だっただろうか…それなりに科学的視点を踏まえた上での子供向けのオカルト本のようなものを読んだ記憶がある。

 

世界中の科学では解明できない不思議な現象や出来事を集めた本だった。僕もそれでいわゆる「ムー大陸」や「ノストラダムス」とやらの話を知ったわけだ。

 

その本の最初の方にこんな風な前書きがあったのをよく覚えている。

 

 

「カブトムシは冬を知っているか?」

 

 

…といったような内容だった。

 

 

「カブトムシに冬の話をすれば、本当のことだと信じてもらえるだろうか?この世には科学では解明できない謎や不思議なことがまだまだたくさんある。これを読むみなさんはどうか常識や偏見にとらわれず広い視野でものを見る大人になって欲しい・・・。」

 

かなりの曲解かも知れないが、確かそんな風な内容だったように思う。子供心にこの視点に胸の高まりを感じたのが今も忘れがたく残っている。

 

 

 

 そんな子供の頃のある日、僕は食卓に置いてあったりんごをなにげなく見て妙に不安になった。

 

 

「このりんごは僕には赤っぽく見えてりんごの形に見えてるけど…本当はどんな色や形なのだろうか?他の人にも同じように見えているのだろうか…?」

 

 

友達や親に聞いたら随分笑われた。いわく…「そんなの当たり前じゃないか!」と。

 

ただ、今にして振り返ると、子供の直感は満更バカにならないのではないかと思えてくるのだ。

 

 

近代以降、人間の五感は大体共通しているという大前提になっているのだと聞いたことがある。とりわけ科学や学問はそのような当たり前の共通認識があって初めて成立する。

 

 

ただ、最近では五感も多少の個人差があるとかの話も聞く。人類の五感共通は実は大きな幻想なのかもしれない。

 

 

 

 我々は、程度の大小の違いはあれ、【生命体】は物理的な個体を持ち、質量・体積があるのを当然のように思っている。

 

だが、「カブトムシの冬」の話ではないが、物理的な個体を持たず、質量・体積が存在しない、または計測不可能な【生命体】が存在した所で何も不思議ではない。

 

いや、むしろ、【生命体】が物理的な個体を持ち、質量・体積がある…という前提こそが単なる人類の五感共通の偏見に過ぎない可能性もないわけではあるまい。

 

 

・・・・・・

 

 

 色々とつれづれなるままに思いを馳せると、多少気が重くなって来たりもする。ま、おそらく「太陽が黄色かったから」…などではあるまい。「緊急事態宣言」とか「ロックダウン」とかが続くとロクなことを考えないなぁ…(笑)。