追悼『お能ごっこ』は透明に、他界の舞となる。
能楽師・観世栄夫氏に師事して<その1>

 
 栄夫先生は2007年6月8日に大腸癌とそれの脳への転移等によって、逝去された。もう三年も経ってしまったかという思いである。当時、密葬ということで、私は葬儀にも参列できず、その「お顔」を拝見してお見送りすることもできず、お別れ会にも公演中のため参加できずにいて、奥様のところへお線香あげに行くことを諒解して戴いたけれども、約束の前日に体調を崩され、青山の銕仙会を通じて遠慮して戴きたいという連絡があった・・・。そのうち東京湾に散骨されたのではないかと聴いた。ただ、東京湾といっても広い、その何処か分らない、それで観世流分家の菩提寺に納骨されているかどうか問い合わせたが、ご兄弟のは入っているけれども、やはり栄夫先生のはございませんということだった。では東京湾の何処に?散骨されたのか。青山銕仙会に再度問い合わせたが、甥である現・観世銕之丞さんもご存知ないということであった。
 
 さて、この原稿を書くにあたって私は、先生の他界への出立に際し、こちらに残る者として、何か踏ん切りのつかない思いでいたのだけれども、ふと先生が時折り見せられたおちゃめな感じで『やーい、いつまでもけじめがつかないだろう。それでいいんだよ。やーい。』と言って、私をからかっているようにも思えてきたのである。それで、こちらも負けずに、先生の散骨が東京湾で行われたにしろしなかったにしろ、とりあえずというかたちで、思いは届くだろうという独断で、私の住んでいるマンションの窓のすぐ下を、東京湾に向かって隅田川が流れているのをいいことに、モーツァルトの「レクエイム」をかけ、河に向かって香を焚き、その前に座して、掌を合わせ、やっと独りのささやかな葬送の儀式を行うことを選んでいた。そうして日常の静かな喧騒に囲まれて座っていると、さまざまな先生との記憶がかすかに去来する。・・今はまだ他界からは遠いようだ。・・・川面を、枯れ葉や塵が流れてゆくのを眺めながら、はじめてわたしは先生の死を泣いていた。それから目の前の200メートル位先を、高速が河を斜めに横切るように向こう岸に渡って走っているので、それを見ているうちに、プロデューサーの荻原さんが同乗されていた、先生がハンドルを握る車が、物凄い衝撃とともに中央分離帯に激突するのを想像していた。ひとりの人間を死に至らしめる程の怖ろしい衝撃を想い浮かべようとしていたのである。しかしすぐに、生きていらっしゃる頃の、芯の強いしかも静かでやさしい荻原さんのお姿にもどっていらっしゃる様子が浮かんできて、その荻原さんに向けて、あらためて掌を合わせていた。
 
 荻原さんは青山銕仙会の能楽プロデューサーで、先生に師事していた間、折に触れて的確な助言をして下さったり、その能楽研修所を私たちの自主稽古に自由に使えるよう取り計らって戴いたり、あるいは彼女の優しい配慮から労いの言葉をかけて戴いたこともあるのである。その生涯をお能に捧げられたやはり稀有な方で、殊に観世流分家青山銕仙会の中心的存在であった観世寿夫、栄夫、静雄(八世観世銕之丞)三兄弟にとって、その制作面において、なくてはならない存在であった。
そのご兄弟も、長男の寿夫さんは五十三歳で弟の静雄さんは六十九歳で、能楽師という厳しい境涯を、その才能の豊かさに反比例するように短い生涯を閉じられた。
 
 長男の寿夫さんは現代の世阿弥とまで言わしめるほどの天才的な存在であったようだが、私は彼が亡くなってからおそらく八年後位に栄夫先生を尋ねて行ったので、ご著書は読んでいるが、そのお噂をわずかしか知らない。そのひとつに、死の四十時間前まで能役者としての基本である、立つこと歩くことの訓練をなさっていたそうである。
 弟の静雄さん・先代の銕之丞さんの場合は、いくつか舞台を拝見したことがあるのだが、ことに荒ぶる神というか、激しい魂の顕現する舞台に、圧倒された経験があって、そのなかでも「小鍛冶」という曲は、刀鍛冶が刀を打っていると、そこに刀の神様が出てきて一緒に打って呉れて名刀が完成すると言うような筋書きであったが、いったい現代劇的に考えると、どう演ずればいいのだろうと思うが、これは確か戸越公園の池の中に設営された舞台の薪能であったが、その池の中州の竹林が舞台に背後から覆いかぶさるように風にざわめく中を、飛び出してきた神的人格は、はち切れんばかりのエネルギーのために、いまにも演技破綻しそうなくらいの勢いで、それを最後まで持続する、実によくコントロールされた修羅のような舞台であった。名刀を打つとは、それは殺人という狂気を内に秘めた、凄まじい戦闘そのもののことであったと納得させられた痛快な舞台であった。あるいは、かつての戦国の世での上演ならば、鍛治場への神の降臨という神聖な磁場が実現したかも知れないとも思われた。
 
 栄夫先生の舞台については、後に記すが、私はこのご兄弟が、なぜ、三人とも三人三様に時に稀にみる優れた舞台を勤めることができたのか、不思議であったが、栄夫先生の自叙伝に、幼年のころ幼稚園から帰ると兄弟で、お能ごっこを毎日のようになさっていたとあって、またそれを観ていたお爺様(観世華雪)が孫のために装束をつくってくださって、ますますお能ごっこに拍車がかかったというくだりを読んで納得のゆくものがあった。芸能がいかにその内容が切実であろうが、それは虚構である、つまりごっこであるという、それこそが芸能のこの地上に存在する理由である。つまり人生は虚無であるという真理に、絶望を一挙に突き抜けるようにして到達するのは容易ではないが、芸能は、幕が開く前から虚無を前提としている。それで観客は、知らぬ間にあらかじめ虚無によって救われているのである。ここにおいて「ごっこ」は、こどもの人間の全生涯の無意識の先取りである。三兄弟のそれぞれの天才的舞台の理由は、あの「ごっこ」にあったと思われる。お能という非エンターテイメントにおいては、役者的カタルシスは徹底して削ぎ落としてゆくために、無意識の「ごっこ」的身体性を持つことは、実は秘匿された奥義なのではないだろうか。
 
 ところで私は約8年間先生の内弟子のようにして、ただし先生の身の回りの世話は何もしない、いやお能の世界は不案内な上、装束等の扱いが分らない為に、お手伝い出来ないままに、お能の教授を受けていた。お月謝は正確には一度収めたが、いらないと言われて返された。それきり収めていない。その上、先生の勤められる能舞台の招待券(それも正面の特等席)を何度も戴いた。それから、私が指南を受けている曲を、大阪の能楽堂で舞われたことがあって「観に来ますか?」と聴かれたので、「はい、是非。」と応えると、新幹線のグリーン車の往復切符まで用意されていた。あまりにも大事にされるので、あるとき家内が「先生は結婚していらっしゃるの?」と聴いたくらいである。私はその時家内の真意がつかめずに「うん、奥さんは谷崎潤一郎の娘さんらしいよ。」と答えてすぐ内心『まさか?』と思ったのであった。実はそれから、一週間か二週間先生を疑っていました。20年以上も経った今だから告白します。ほんとうに、ほんとうに先生ごめんなさい。先生が若い女性のお尻に触るのがお好きだったことは後で知りました。
 なぜ、先生が私に興味を持たれ、深いご縁ができたのか?考えられるのは、ひとつである。竹内(敏晴)演劇研究所でのレッスンで<からだに手をつけた>からである。からだとは、無意識であり、他者性である。究極のコミュニケーションを求めて、道場のごとき訓練の日々は、ほとんど動く座禅、ヨガの修行に近かったかも知れない。その果てに私は、舞台に立てばカオスとなるからだをコントロールできる芸能はお能しかないと、いや当時はそんなことも考えていなかった。お能は観たことがないのだから、ただいかなる選択もなく、なにかに突き動かされるまま促されるまま、まったく知らないお能の世界に脚を踏み入れたのだ。
 
 先生が入院なさったということを知ったのは、亡くなる一年位前であったろうか、それも癌の手術で二度目の入院であったというのをその時はじめて知った。舞台はその内にというつもりで何のお付き合いもなく、8年位の月日が流れていたと思う。私たちが立ち上げた小劇場の杮落としに出演して戴いた時以来である。病室に入ってはじめて、私も少し動揺していたのか、お見舞いも何も用意しないで来たことに気づく始末だった。その時先生は、おそらく荻原さんが入れられた温かい紅茶を、ベッドに端然と座って美味しそうに飲んでいらしたのを、鮮やかに記憶している。「先生、また舞台を一緒にやりましょう。」と言うと、少し間があって「単発じゃあ嫌だ。」とおっしゃった。実は10?年前にモーリス・ブランショ原作の「死の宣告」を『アミナダブ』として舞台化するのに、演出をして戴いていた。その公演の打ち上げの席で先生が、もう一度これを再演したいと言われたのが聴こえなかったかのように私は、芝居小屋作りに取り掛かってしまったのだ。私にはたまに起こることだが、理由も考えも何もなく、ただ何かに憑かれたようにやり始めたら止まらないのだ。後先考えずに、資金のこともあるだけ掻き集めて、小劇場を四年の間に二つ作ってしまった。その上先生に、その劇場の杮落としをさせておいて、そのままほったらかしで、自分の劇場と劇団のこと以外は見向きもしなかったのである。ヒドイ弟子だ。それでその病室で私は、8年間のブランクを一挙に埋め戻せるかのように、先生のその釘を刺す言い分に対して「ええ、もちろん。もう劇場を立ち上げたので、これからはじっくりとやりたいです。」という約束をして、先生もお疲れになってはいけないと思い早々にその場を辞した。エレベーターの前まで荻原さんが見送って下さって「岡村さんも、お体に気をつけて。」と少し丁寧過ぎるくらいの調子で言われたのを記憶している。
 それで先生と最後にお会いしたのが、確かシアター・トラムの、太田省吾構成・演出の「ある夜―老いた大地よ」(ベケットの後期散文の舞台化)の終演後シンポジュウムの客席で、「体は大丈夫なのか?」と聴かれたのが最期になった。当時私は、長期入院したり車椅子状態であったり、当日も杖を持っていたせいもあってか、ご自身も二度目の癌による手術をなされていたにもかかわらず、そう尋ねられて私はとりあえず言葉を急いで継いで「栄夫先生は如何なんですか?舞台に立っても大丈夫なんですか?」と言った。
『うん。』
「辛いという事は無いんですか?」
『だけどまあ、何処かしら痛いんだよ・・・。』

 私は先生の隣の席で、先生が一回目の手術で人工肛門を着けることになって、帯を結ぶ箇所をはずして貰ったんだと言われたのを想い出していた・・・。私は、先生がご自分の意志というよりも、能役者として生かされて、留まるところを知らないんだと、少しぼんやりしながら思っていた。ステージではシンポジュウムが進行していて、太田さんが「ポップは嫌いなんだよ。」と発言していたのを聞くとはなしに聞いていた。これを書いている今、その言葉がこちらに独り歩きしてくるようだ。あのあと太田さんも先生の死の一ヶ月後に肺癌で亡くなった。

 ところで、私が病院に先生を見舞った後、先生との約束を実行に移すべく、荻原さんに先生のスケジュ-ルの確認を取ろうとしたところ、電話の向こうで彼女は「先生はもうだめですよ。科白が憶えられないのです。実は先生に直接来たお話は仕方がないのですが、わたしにきた場合はお断りしているんですよ。」という応答であった。私が黙していると「銕仙会の若い方たちとなさって下さい。」と静かにおっしゃった。(若いといっても50代から還暦前後の能役者の人たちのことであるが。)申し訳ないという思いが込み上げてくるが、言葉にできず、「わかりました。そういう方向をとってみようと思います。」とだけ言って電話を切った。既に遅かったのだと、自分の不甲斐なさを恥じるしかなかった。おふたりのご存命のうちに、(私的才能に関係なく)ご恩返しができなかったように思った。
荻原さんに電話した数ヶ月後、ある日夜遅くに、版画家で舞台装置家の脇谷さん(私の主宰する劇団・阿彌にとっては、優しく故郷のように包み、厳しく見守ってくれる地母神?的存在である。)に電話した時である。先生が亡くなる半年位前であったと思う。ある著名な方の出版記念パーティーで栄夫先生に偶然会ったというのである。その会場で脇谷さんを見つけるなりいきなり先生が近寄ってきて、もちろんおふたりは、阿彌の舞台「アミナダブ」で演出家と舞台装置家という立場で出会っていらしたのだが、何の前置きもなく「岡村が玄関ロビーにいるから。行ってきたら?」と言われたのである。どうしたんだろう?いやそんなことはあり得ないと思い、それにどうしようもないので無視していると、またつかつかとやって来て「岡村がいるから!」と言ったまま少し離れた所からじっと見られているので、「しかたがないから、玄関まで行って引き返してきたんだよ。」という話であった。その頃には先生の異変はまれにあったのだろうか?少し胸が痛かった。「約束したのに・・」もちろん荻原さんは先生には内緒だったろうから、先生にしてみれば、待てど暮らせど岡村から連絡が来ない、それが無意識層まで降りていたのか、あと癌が脳に転移していたせいもあったかも知れない。
高速道路での事故は、癌の脳への転移による意識の乱れが、直接の原因であったとも考えられるということだった。

 怪我の状態はひどくないということだったが、先生の入院先を聞くために、銕仙会に電話を入れた。応えは「今、栄夫先生は動揺なさっていて、お会いできる状態ではありません。」ということだった。晩年は先生にとっての荻原さんは、制作から先生の身の回りの世話まですべて任せきっていた人である。先生の習癖から好きな食べ物まで知悉していらしたのを私も知っている。先生の自責の苦しみは凄絶を極めたのではないかと思った。少し落ち着かれてからでないと、先生の性格からは、やはり会ってもらえないだろうと思っていた。二週間経っていなかったと思うが「先生の葬儀は、密葬になりました。」という冷たい電話を受け取った。どんなにか辛酸を嘗める思いのまま旅立たれたろうと思っていた。
去年である。若い女流能役者の鵜沢光さんから、最後に先生のお見舞いに行ったというのを聞いた。病室に入ると先生は明るい調子で「俺はもう駄目だ。荻原さんが迎えにきたよ。」とおっしゃったそうである。それを聴いて私も心が晴々したのを憶えている。おそらく苦しみの極限で大転換が起こったのである。

 私には霊感はないが、栄夫先生もそうだったはずである。しかし、ほんとうに荻原さんの姿が視えたに違いない。荻原さんのほうも心配で様子を見にいらしたのだと思った。そのとき霊は、生前のかたちを摂って『先生もう一緒に参りましょう。ご兄弟もお待ちですよ。この世のことは、若い人たちに・・。』とまるで能舞台のような想像を巡らせる余裕が、お陰で出来た程である。

 おそらく霊となったご兄弟は、「お能ごっこ」を、生前は長男の寿夫さんにいつもシテを奪われてしまったそうだが、誰々がシテでシテツレで誰がワキということもなく、永遠に幼児のように愉しんでいらっしゃるかも知れない・・・。

(つづく)

『ノート・非ノート』 岡村洋次郎


『ノート・非ノート』 岡村洋次郎


朝、ホテル出発前、もう一度、リカー・アムールを見に行く。
何度見ても、あの流氷の流れる速度はなんとも形容出来ない。


あの速度はなんだろう・・・。

ゆったりと、

遅くもなく、速くもなく、

音もなく、

際限もなく流れてゆく流氷・・・、


何処へという問いさえもなく、
あらゆる言葉が溶解されてゆく、
リカー・アムールの流れのなかに・・・。


あの速度はなんだろう・・・。



『ノート・非ノート』 岡村洋次郎



『ノート・非ノート』 岡村洋次郎



『ノート・非ノート』 岡村洋次郎


ハバロフスク。
シベリア慰霊平和公苑。(日本人抑留者6万人余)
殺風景な所で、ここに死者の魂が集まってくるのだろうかと思った程だ。
-10℃。寒風吹き荒ぶ中、それでも合掌すると、あたりの空間が凝縮されたように、身の内が充溢してくる。


流氷の大河、アムール。(やはりハバロフスクの街のすぐ側を流れる。)
何度も見に行く。
つねに薄い雲の裏側にある太陽の輝きと、その下をゆっくりと動いている氷河の光景は、やはり涙が出る程美しい。
 
しかしなぜ、剥き出しとも言える大自然に、これ程の深い倫理を感じるのだろう。