死刑囚に対してのコメント記事を読んだ時、「遺族の気持考えたら早く死ね」いうコメントをみかけたことがあります。
本当に被害者の気持に心を投影させて憎しみが湧き上がって、そうコメントしている人もいるかもしれないけれど、私はそういう人ばかりではない気がします。
先日離婚した友人Aが、ある事情で子供を元旦那と再会させないといけない状況が起こりました。
そのときその友人Aの知人が、「人としてよくそんなことができるね!それは正しい決断だとでも思ってるの?親として失格」と言ったそうです。
その知人さんは、幼少期に自分の両親が不仲で苦しい思いをした過去があったそうです。
つまり、自分の経験を通して自分の消化しきれていない痛みをもっともらしい正論という手法で
友人Aにぶつけているだけに過ぎないと私は思いました。
正論は、時として必要なときもありますが、その人を本当に案じての正論なのか、自分の感情を晴らすための道具として用いてないか?を慎重に考えて発するべきだと思います。
極端な例え話になりますが、会社でいやなことがあって猛烈にイライラして家に帰宅したとします。
テレビをつけたら、体罰教師のニュース。「最近の教師はなっとらん!!!」と猛烈に怒ったり
するのだけど、本当は会社であった今日の出来事に怒りを抱えているのに、そのことは無かったことにして、もっともらしく饒舌に教育委員会の不満をペラペラ話し、正しいことを言った気分になったりします。
人は心のどこかで、自分の抱えた本当の怒りを抹消しながら、安心して怒りをぶつけられる別な対象物を探していたりします。
それが「正論」と言う名の対象物です。