3月22日、娘の東京での生活が始まった。一日かけて家具や荷物を整え、夕方に足りない調味料を買いにスーパーへ向かった。この買い物を終えれば、しばらく娘とは会えなくなる。その実感が、ふとした瞬間に湧いてきた。


​「一人でちゃんと食べていけるだろうか」
​スーパーの通路を歩きながら、そんな不安が頭をよぎった。仕事で疲れ果てた夜は、ご飯を炊く気力さえ起きないかもしれない。おかずを作るのはもっと大変だろう。そう思うと、自然と手が動いていた。レトルトのご飯や缶詰、すぐに食べられる海苔や鮭フレーク。気づけばカゴの中は、娘の体調を案じるための食材でいっぱいになっていた。


​娘のことを思いながら食材を選んでいる最中、自分の中にこれほど強い愛情があったのだと改めて気づかされた。そしてその感情は、そのまま自分の母への思いに繋がっていった。母もまた、僕に対してこのように「無償の愛」を注いでくれていたのだと。


言葉では何度も聞いてきたフレーズだが、それが24時間、何十年も自分に向けられ続けてきた実体のあるものだったのだと、この年齢になってようやく実感できた。


​かつて僕は母のことが嫌いだったが、今は関係も修復し、会えば自然と笑顔になれる。ただ、自分の中で一つだけ引っかかっていることがあった。それは、母に対して「可愛い」という感情を抱いていることだった。嫌いな時期に比べれば良い変化だが、どこか自分より下の存在を愛でるようなニュアンスが含まれている気がして、ずっと違和感があった。
「母を好きにはなったけれど、心のどこかで見下しているのではないか」という疑念が、胸の奥に溜まっていた。


​しかし、娘の生活を案じてあれこれとカゴに詰め込んでいる今の自分の姿は、かつての母そのものだった。僕のために心を砕いてくれた人が、どれほど強く、尊い存在であったか。そう気づいた瞬間、母への「可愛い」という言葉に付随していた違和感は消え、純粋な「尊敬」へと変わった。


​ずっと母を尊敬できるようになりたいと思っていたが、娘の門出という節目に、ようやくその思いに辿り着けた気がする。娘を送り出すこの日は、僕自身が親の愛を学び直し、本当の意味で母と向き合えた日になった。娘の門出に、心から感謝したい。