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「若者言葉は時代と共に消え去ればいい」のか?「ジベタリアン」発見!「昭和」基地応答願います。

「若者言葉は時代と共に消え去ればいい」のか?

「ジベタリアン」発見!「昭和」基地応答願います。

なんという程度の低い…と嘆息する。毎度のことではあるが、いわゆる若者言葉に対する高齢者の見解にだ。勿論、全ての高齢者が阿呆みたいな見解を持っているわけではない。この度の嘆息は、ちょっとした記事をみかけたからだ。

「ジベタリアン」「3M」「昭和」「ソック」など例を挙げ、若者言葉というものは難解だなあと述べるオーソドックスな若者言葉雑感なのだが、そのシメの言葉に眩暈を感じた。

はやり言葉は時代と共に消え去る運命、と思いたい」

なんという程度の低い…。

その前に、若者言葉として挙げられた言葉もセンスがない…「昭和」を「動きや言動が古い人」と述べているが、まず、めんどくさいことではあるけれども突っ込んでおくと「言動」には「動き」の意が含まれているわけで、「頭痛が痛い」的叙述になってしまっている。細かいことだけれども「言葉」の問題に焦点を当て、まして「はやり言葉」を「消え去る運命と思いたい」と評したいのなら「はやり言葉」でも「若者言葉」でもない「真っ当な日本語」が不自由ではいけない。「昭和」に戻る。これは「言動が古い人」を指してはいるけれども、実際はそういうニュアンスではなくて「センス」を揶揄する単語だ。古い古くないではなく「ベタ」なリアクションを取ると「昭和」だといわれる。「昭和時代」に定番だったリアクションを未だにやっているという含みなので、確かに「古さ」の意味合いもなくはないのだが、この場合「古いこと」よりも「その場に適したことができていないこと」への揶揄の方が強い。「言動が古い」のではなく「言動にセンスがなく」それが「悪い意味で古い」というのが正しい。「古い言動」全てを「昭和」と言っているわけではない。…この記事の文責者はこれら若者言葉を『大修館書店の「みんなで国語辞典!」』で調べたという…言葉を評するのに「言葉を限定し過去に縛り付けてしまう辞典」を利用してそのまま発信してしまうというセンスのなさ。辞典というものが「言葉」に関しては「知る為の足がかり」でしかないことさえ理解できていないのだろう。その感覚が惹き起こした悲劇が「ジベタリアン」だ。「ジベタリアン」。この記事がネット掲示板に掲載された時に、国を巻き込む嘲笑と失笑を買った。

「ジベタリアン」というセンス自体が「昭和」。若者言葉というよりも高齢者が若者を指して「若者ぶって」使っている「若者言葉風死語」。「○○タリアン」のセンスが「昭和」なのだ。この文責者がどこでこれを聞いて例に挙げようと思ったのかは知らないが、あまりにも、あまりにもだ。もしかしたら身近な若者が使っていたのかもしれない。けれども、少し「言葉の感性」に優れた人なら「○○タリアン」の語感が「昭和」臭いことに気付き、少なくともこの手の記事の例には挙げない。他に挙げた例も、「なぜそこを挙げるのか」と失笑を買うにふさわしい素敵なものばかりだ。これらの例はふた昔前程度の「はやり言葉」的センスに彩られている。「いかにも若者言葉らしい」単語をセレクトする際に、自分の中の「はやり言葉・若者言葉」のイメージに引っ張られてしまったようだ。自身が使っていたのかもしれない、もしくは一番印象深かったかもしれない「はやり言葉」のニュアンスを持つものをセレクトして、失笑を買ってしまった。

そしてシメがあの一言。

はやり言葉は時代と共に消え去る運命、と思いたい」

「若者言葉批判組」の多くがこういったスタンスだ。聞きたい。なぜ「消え去らなくてはならないのか」。「若者言葉」の何が悪いのか。

「美しい日本語」を弄び破壊しているからか。「言動」一つまともに使えない「大人」が何を言うのだろうか。

というと攻撃的に過ぎるが、この文責者、当記事の前半部分では「新前」と「新米」の関連について言及し、「できるだけ語源(=心)を大事にすべきだが、言葉が変遷するのも事実である」と述べている。であるに関わらず「若者言葉」は「消え去る運命と思いたい」という。既に「変化した、現在使用されている言葉」は受容できるが「これから変化しようとしている候補生」らは受容できないということなのか。と考えれば尚のこと、この文責者に「言葉のセンス」はないように見受けられる。「言葉のセンス」というよりも「文化を語るセンス」がないのかもしれない。

(これは励ましの言葉です)

「若者言葉」「はやり言葉」は世の常。そして消えるものは消えていく。残るものは残っていく。それが言葉。常に変容していくからこそ言葉は美しい。変容をなくした言葉は骸に過ぎない。その骸のうち、完成度の高いものは「文学」と呼ばれることになる。日常における言葉というものは感性と論理の融合体なのだから、変容を否定することは「言葉」自体を否定することだ。勿論、「若者言葉」ばかりではいけない。感性と論理の融合体と言った。であれば当然、その場に応じた「言葉遣い」も存在する。年長者との会話、仕事相手との会話。それらにも対応しなくてはいけない。若者らの問題は、「若者言葉」がいけないのではなくて、それら臨機応変な対応ができないからいけない、とそういえば納得する。仲間内で「若者言葉」を使って何が問題なのだろうか。「消え去る運命と思いたくなる」くらい、何が問題なのだろうか。

むしろ気になるのはアナウンサーの感性の問題だ。「今日のゲストは○○さんがいらっしゃいました」などと言い放って平気だ。「私、昨日も“ちゃんとしなさい”ってお母さんが言われたんですけど」などと平気で言う。「母に・言われた」が正解だ。いや母親を敬うあまり「受身」ではなく「尊敬語」としての「言われた」かもしれない?それなら「お母さん」はおかしい。「母上」なら成立する。というより公衆の面前で自分の身内の話をする時に「尊敬語」転換することが常識的におかしい。まして「お母さんが・誰かに・ちゃんとしなさいと・言われた」というニュアンスであるはずもない。主述が全く統一できていない。ただ、言いたいのはそういう間違いをするなということではない(極力ない方がいいのだが)。生放送などでうっかり言ってしまうこともあるだろうが、それを訂正せずに言いっぱなしにしてしまうことが問題なのだ。「若者言葉」による一時的な局部的な乱れよりも質が悪い。「若者言葉」などはほとんどが淘汰されてしまう。言葉・日本語への繊細な感性が失われることの方が重大だ。ましてTVでそれを垂れ流すなど。

「若者言葉」「はやり言葉」に本来の「日本語」が敗北するとは思っていない。逆に新たな「日本語」候補の出現に胸ときめきさえする。けれども、「正確な日本語を使用しなくてはならない場」で「正確な日本語を使用する仕事」をしているものが「不正確な日本語を使用して訂正もしない、気付きもしない」という状況には、危惧を禁じえない。「日本語」の根幹部分だからだ。アナウンサーだけではない。周囲の「若者言葉」を否定する「大人」たちにも同様の失敗が見受けられる。そういった「大人」たちは理解するべきだ。

自分たちは「若者言葉を使っていないだけ」で「正しい美しい日本語を使いこなしているわけではない」ということを。

(これは励ましの言葉です)

亀田長男の試合を観た。

亀田長男くんが試合をした。

出先で、初めて最初から最後までしっかりと観た。ボクシングは、好きではあるけれども殊更に詳しいわけではないから、それほどやいのやいの述べるのはどうかと思う。だから、ただの一般素人の率直な感想だと割り切って欲しい。

世界ランキング上位選手の試合にしては、凄みが感じられなかった。ボクシングは、深夜などに放送があれば、また大きな試合が放送されればかなりの頻度で観てきた。その程度で言うのは選手に失礼なのだが、正直なところ、そう感じてしまった。激しく打ち合えば凄いなどとは言わない。アウトボクシングでも、世界ランカーのそれは見入ってしまう。高等テクニックのいちいちを知らない者にも、「凄いことをやっている」ことは伝わる。亀田長男くんと相手の選手が凄くないわけではない、のだと思う。ただ、世界トップランキングを保持する選手の試合に期待するものが得られなかったと感じた。これは所詮素人の感想だ。けれどもその素人を相手にするのが商売なのだから、と思う。

中盤になって、亀田長男くんがかわいそうになった。

あれだけ体を作って、人前に出て殴り合っているのに、恐らく、結構な数の視聴者、それも日本人の視聴者は、彼の勝利を願っていないだろうからだ。負ける姿を観たがっているだろうからだ。粗を探したり嘲笑しながら観たりと、そういう視聴者の数がこれほど多く予想される日本人選手というのも珍しい。その土台となったのが件の「疑惑の判定」試合だ。

あれがあった為、試合を観ていても、どうしてもそのフィルターを通してしまう。両者のパンチが空を切り続けると「そういう手筈?」と、本来そこは、滅多なことがない限り素人視聴者なら「凄い技術でかわしていることだなあ」と驚嘆する場面だ。相手選手の手数が減ったり好機に打ち込まなかったりしても、そうだ。本当はそんなことはないかもしれないのだけれど、一瞬、頭をよぎる。格別アンチでもないこの身がそうなのだから、アンチ目線で観たがるものにとっては、それはもうネタの宝庫でしかない。

「疑惑の判定」が実際どうだったかは、当事者しか分からないから必要以上に突っ込む気はない。問題はそこに到る過程とそれ以後の処理だ(当然だが)。最初に、TBSがああいうキャラクターで売り出したことも、まあいいとする。けれども、あれをあのままで特別枠扱いしてしまったことがそもそもだった。言ってしまえば、亀田長男くんには、中身がなかった。キャラに関してもそうだし、ボクサーとしてもそうだったろう。「第一次ランダエタ戦」も、もしああいう形ではなくグリーンボーイのスペシャルマッチとして行われ、試合の模様も深夜枠辺りで放送されていたら、「多少のホームタウンデシジョンはあったけど」で済んでいたかもしれない。試合の内容的にも許されていたかもしれない。ゴールデンでぶち抜き3時間枠、「世界ベルトへ挑戦」と銘打ってしまえば、望まれるハードルが上がるのも当然。そしてそれに応える力量がまだ、なかった。ボクシングだけではなくキャラクター的にもだ。ソコに叩きやすそうな材料が出てきた。「ダウンしたのに判定勝ち」「調べてみたら相手は昨年、引退表明をしていたロートル」と「それなのにそのことを放送しないテレビ局」「階級の違う者同士が空位になったベルトを争っている」など。それまでの亀田一家のキャラクターに反感を持っていたものが一気にアンチとして花吹いた。インターネットで加熱した。ネットが動かしたとは言わないけれども、明らかに「亀田推し」だった各種メディアがネットでの亀田批判を取り上げたことから、世間の流れも変わり始めた。以来、亀田一家の試合はまず、あらゆる疑念を通して観られることが圧倒的に多くなる。結局、ランダエタとは再戦し、長男くんは勝利したが、その時も多くの批判に晒された。それは第一次以後、一切悪びれなかった長男くん他亀田スタッフのあり方と、そうなって尚も推すTV局への反発だった。ファン離れ・スポンサー離れも続いた。

TVは亀田長男くんを、ああいう風に演出するべきではなかった。キャラはあれでもいい。しっかりと日本人選手らと日本ランキングでしのぎを削らせるべきだった。そうすることで観る側も、より強い思い入れを持つことができた。コンテンツとして、より長期に賞味期限を保つことができた。急増過ぎたのだ。負ければ「あれが実力、ざまぁみろ」勝てば「また裏でなにかしら」、そう言われるようになった原因は、多分に悪演出による。

「八百長疑惑」「対戦者高齢者疑惑」「対戦者実力疑惑」「実力疑惑」「キャラクターへの拒否反応」が問題点となる。キャラクターについては、ボクシングといえども消費者側からすればエンターティメントの一つなので、プロレスなどを参考にしっかりと作り上げればそれでいい。他の問題点は、多くのボクシングファンまたはTV視聴者、亀田一家に是も否も興味を持つ一般人の、亀田一家とりわけ長男くんへの要望でもある。つまり、「誰もが納得する日本人選手と闘え」ということだ。八百長疑惑含め、それで勝てばアンチも納得せざるを得ない。

極論、面白ければ文句はない。だから文句を言いたい。そういうことだ。

高視聴率=面白い、ではない。

春。この時期からTV番組が衣替えを始める。存続する番組、打ち切られる番組、新しい番組。それを決定する大きな指針が視聴率だ。視聴率が悪い番組は打ち切られて姿を消す。

視聴率は、TV業界では絶対的な価値基準、らしい。全てがそれを中心に動いている。語弊もないだろうとは思うが、民放のTV番組は、企業のコマーシャルの為に製作されているものなのでそれは当然のこと。視聴率至上主義を批判する気ははなはだない。

ただ、視聴率のいい番組=面白い・良い番組ではない、ということは言いたい。

視聴率は、その番組をどれくらいの人が見ているかの指標だ。視聴率が高いということは当然、より多くの人が視聴しているということになる。極論的に放言すれば、逆にそれは「それだけのこと」でもある。多くの人が視聴しているだけなのだ。多くの人が視聴するからその番組が良質の番組であったり面白い番組である証明にはならない。

多くの大衆が食い付くものの最大の要因はまず、「分かりやすさ」にある。誰にでも「分かる」ことが大事だ。どれほど高度で面白い内容でも、それが難解であれば食い付かない。一部の人間だけが面白がって終わりとなる。簡単な計算だ。幼児、少年少女、青年、中年、高齢者があったとして、その全てが「分かる」ものならば、その全てがそれを受け入れる対象となる。少年少女しか「分からない」ものならば、少年少女しか受け入れを期待できない。故に視聴率のいい番組とは、平均的で大味となる可能性が非常に高くなる。

視聴する姿勢を考える。多くの人がTVの前にしっかりと座って、最初から最後までじいと観るといった視聴姿勢は、はるか前時代のものだ。夕食を摂りながらであったり家事に勤しみながらであったり、家族で会話に興じながらであったりと、BGM的に流されていることの方が今や主流。視聴率の割の良い時間帯・ゴールデンタイム(19:0022:00)/プライムタイム(19:0023:00)などはそうである可能性が、格別に高い。又、早朝、昼時もだ。結局、しっかりと番組を視聴しているだろう時間帯は深夜帯くらいではないか。就寝前に一息ついてのんびりと。それでさえ、明日の支度をしながらという人も少なくない。お気に入りの番組以外は、BGMとしてただ流されていることが、意外に多いのだ。

お気に入りの番組を観る時は、他のチャンネルに変えたりはしない。毎回、一時間なら一時間、チャンネルは固定のままだ。そういった視聴者は固定視聴者であり、毎回の視聴率の上下に絶対的には関わってはこない。毎回の視聴率の上下に絶対的に関わってくるのはそれ以外の、浮動票視聴者。なんとなくつまらないと感じたらチャンネルをくるくる回す視聴者。CM中などに、他に面白い番組やっていないかとチャンネルを回してみる視聴者。それら浮動票が毎回の視聴率に大きく関わってくる。

そうなってくると、どうなるか。「分かりやすさ」が求められることに帰結する。どこから割って入って観てもそこそこ楽しめることが重要だ。基本的に可もなく不可もなく、多少可であるくらいが丁度いい。これは適当な個性と言い換えていいかもしれない。個性の強すぎる番組は、途中参加しづらい。7080点くらいが丁度いい。濃い薄いで言えば、ちょっと濃いくらいがいいのだ。

視聴率のいい番組が全てそうではない。けれども方法論として、そうなっている。その如実な例として、高視聴率テーマと言われるものがある。「食べ物」「子供」「動物」「健康」などがそれだ。高視聴率企画もある。「クイズ」「ドキュメント(感動もの)」「レポートもの」。ゴールデンタイムに放送される番組をちょっと観察すれば、多くがそれらの組み合わせであることが分かる。逆に深夜帯の番組を覗くと、それらをメインで押し出したものの少なさが目につく。TV番組の話をすると、ゴールデンの番組はどれも似たり寄ったりだよね、という意見を聞く。

ゴールデンタイムは最も多くの人がTVを視聴する可能性がある時間帯であり、事実、そうだ。企業らがCMを打つには垂涎な時間帯ともいえる。ためにスポンサーとして名乗りを挙げる企業も多く、出すもの=スポンサー料も多い。それらが番組制作費となりTV製作側の収入となる。巨額が動くので、下手を打つわけにはいかない。そこで、下手を打たない為の方法論が生まれてくる。どうやれば許容最低限以上の視聴率が取れるか。例えば1クール(TV番組放送の単位。13回で1クール)中、たった一回40%を越え残り全てが10%を下回るよりも、全回20%である方が好ましい。勿論、理想は常に超高視聴率であることだが、現実的にはそうもいかない。常に100%の力で製作し続けられるなら、まだ挑戦する価値もある。当然ながらそれは有り得ない。あらゆる困難・無理難題の・劣悪環境の中、睡眠時間を削って仕上げているのが現状だ。企画が理想高く立派でも内容を作り切れなければ、駄作となり大損害を被る。だから確実な方法を取る。悪いことではない。繰り返すが、巨額が動いている。社員の生活がかかっている。ただ、その結果、どの番組を観ても、大体「食べ物」が映し出されて「クイズ」が出てと、既視感に襲われるようなことにもなってしまう、という理屈だ。無論、どの局もその辺り、いろいろと手を変えてひねってはいる。

他に、ゴールデンなどでは家族が揃っている可能性も考慮して、過剰過激な内容を控えたりもする。

チャンネルを止めて貰う為には、そういった部分が必要となってくる。

ネット上で時折、そしてこの改変期によく目にする言葉で「ゴールデン降格」というものがある。安定した視聴率を取る深夜帯の番組がゴールデン枠に移動することがままあるが、それは本来「ゴールデン昇格」と呼ばれる。「ゴールデン降格」はその「昇格」を皮肉ったものだ。

深夜帯というのは非常にマニアックな、実験的な番組が放送されている。ゴールデン的な「縛り」が緩いからだ。その為、たとえば低予算でチャチ過ぎたり完全に空転していたりとひどい番組も少なくはないが、一方で、突然変異的に面白い企画・新しい企画が成立してしまうこともある。結果、ディープな固定ファンがつく。どんなことをしてもその番組を観たいと思うファンだ。その時間がくるとTVの前にへばりつくファンだ。深夜番組自体のファンというものも存在する。それらの番組が「好調な視聴率→時間帯を少し下げてのスペシャル特番→それが好調だった場合、ゴールデンタイムへ移動」という流れに乗ることがある。それを深夜番組のファンはひどく嫌う。先述のようにゴールデンにはゴールデンの方法論がある。移動すると、徐々に徐々に、ほぼ確実に、ゴールデン対応の番組に変化していく。半年もすると、番組名だけ同じで内容が全く異なるものが放送されている。それを嫌う。出来のよかった繊細な番組が大味な大衆番組に変化する。だから「ゴールデン降格」なのだ。

番組改変期、深夜番組ではよく「遂にゴールデン昇格」と嬉しげにタレントさんが報告する光景を見かける。けれどもそれは、視聴者にとってはどうでもいいことだ。タレントさんや製作スタッフにとっては嬉しいことだろう。ゴールデン枠で活動できるタレント・番組だと評価された証だ。それはつまり、スポンサーであったり局編成部だったりというお偉方に「それだけの価値がある」と認められた証なのだ。それだけの価値とはゴールデン用のギャランティを用意してもよいということだ。ゴールデン枠とは熾烈な競争の枠でもある。「そこで戦える人材」という評価ともいえる。だから喜ばしい。それは分かる。頑張れ。けれどもそうなるとその戦いにおいて、その場に合わせた戦術へと変化させていかないと勝てなくなる。「ゴールデン化」だ。深夜帯だから通っていた企画が通らなくなる。ゲストタレントさんの種類も変わってくる。深夜番組的な猥雑さ・マニアックさは姿を消し、洗練されたステロタイプな空気に支配されていく。深夜時代からのファンは、だからそれを「降格」と呼ぶ。そして離れていく。

深夜番組が素晴らしくてゴールデン番組が駄目だというのではない。方法論が違うし、対象視聴者の内容によって企画が変わるのは当然のこと。ただ、楽しみにしていた番組が全く違うものになってしまうのは寂しいという話だ。

敢えて、少し悪意交じりで言う。

ゴールデンの番組は白々しく空々しいものが多い。あざといものが多い。ベタなものが多い。企画もタレントさんのコメントもだ。ドラマにも言える。

こういったことは、「高視聴率タレント」にも言えなくはないか。

見ていてどうということはないタレントが高視聴率タレントと呼ばれていたりはしないか。ほんの少しの場当たり的な毒舌やちょっとだけ他の人は言わないようなコメントを織り込む。よく聞いていると、毒舌も大きなところ(詳細は避ける)へのそれは上手く回避し、他の人は言わないようなコメントも実は「他の人→一般人」であり、タレントとしては普通であったり、それを頑張って言おうとすると上っ面だけの薄っぺらい能書きになってしまっていたり、している。

「濃い」タレントさんは視聴者の好き嫌いもはっきりさせてしまうからだ。ちょっとした個性程度の毒が吐ければいい。「この人強気でいろいろ言うよなぁ」と少しだけ思わせればいい。そういう「キャラクター」を販売しているのだ。中身はそれほど必要ない。凄く面白くはないし感じ入ることもない。TVをなんとなく点けてはチャンネルを回す視聴者にはそれくらいが丁度いい。あまり「濃い」と鬱陶しい。あまり「面白い」と鬱陶しい。「みんなが見やすいタレント」であることは「分かりやすい番組」と同義だ。

勿論、これも全てがそうではない。全てではないが、意外と、そうだ。

視聴率というのはそのまま、金の話だ。

というとヒステリック過ぎるきらいもあるが、あながち間違いではない。だから業界の人々は必死になる。繰り返すが、それは悪いことではないのだ。

ただ、そうやって視聴率の安定を考えて作られた番組が多くなると、ますますBGM的にしかTVを観ない(聞かない)人間が増えるだろうし、それは製作側・スポンサー側にとっても好ましい状況ではないはずだと思う。

建前と本音がある。

「スポンサー側:TVCMで大きな宣伝効果を狙いたい」

TV製作側:高視聴率をとって高評価されたい(高収入を得たい・高ポジションに昇りたい)

これが本音だ。

「社会へ、娯楽や情報提供などの文化貢献をしたい」

これが建前だ。本音は本音で構わない。建前にも幾ばくかの真実は含まれているだろう。その真実の量を、ほんの少しばかり増やして貰いたい。

(誤解のないように…TV局の収入はスポンサー広告料だけではない。67割方といったところ。自社が制作費を出している番組も多くある。現実問題として、現時点では多くのTV番組が企業スポンサーなしでは成立し得ない)