宗教としてのシントーは絶滅に近く、統治の原動力としての力は間違いなく衰えつつあります。西洋の科学はその宇宙創造論を、西洋の哲学はその神話体系をひっくり返してしまい、倫理規範の欠落した日本の簡単な道徳の中にいる人々の間でさえもシントーはその力を失ってしまっています。現代を代表するシントーの推進者であり復活者であるモトオリ(本居宣長)は次のように強調して主張します。「中国は道徳を発明した。なぜなら彼らは不道徳だったからである。しかし日本はそのようなことをする必要がなかった」『実践してそして学ぶというミチ(倫理)が存在しないということを知ることによって初めて神の道を実践することを真に学んだと言えるのである 』現在駐英公式をしているモリ(森有礼)氏はそのことに関する自分の意見を表明し、「シントーの中心となっている考えは死に向かう畏敬の念に満ちた感覚である。それを絶対的な政府を支える力に変換し、政治的に利用した国家のやり方は全く正しい。そのやり方は現在の日本の政府に存在している」と言います。ハリー・パークス卿も「全体的に日本人はシントーとは何かを説明できずに途方に暮れている。国家の代表者の側は全く誤りを起こなさないという考えは、当然のように神の子孫である支配者たちに引き継がれ、中国や日本で政治的な目的を達成するための都合の良い教義になった」と言っています。日本で考古学を研究してる前駐日公使のフォン・ブラント氏はシントーについて「西洋の神々によって理解されてる宗教的な特徴はシントーにおいてほとんど認められない」と書いています。最も労を惜しまない 優れた観察者の一人であるケンペル氏は以下のように書いています。「シントーという宗教は全体としてはとてもつまらなくて単純である。彼らは神様たち、神格化された人々や英雄たち、理性や常識に反したものに関する山のような素晴らしくてロマンチックな物語を別にすると、彼らの神は聖なる書物も伝統も持っていない。その結果そういった不思議な人々、神々の性質や本質、神々の権力や統治、魂の将来の状態、他の異教徒のシステムをとって普通不可欠なその他の本質的な問題に対してシントーは完全に沈黙している」。道徳律や全体の明確さや将来の状態に関する興味などが欠如していることによって、仏教がこの国のほぼ全体を征服できたことの説明が容易にできます。そして無学な人々の間には依然としてシントーの優位性が保たれたままなのです。儀式も教義も美的感覚も、そして崇拝のためのはっきりした対象も持たないシントーは宗教というよりもある種のシステムなのです。シントーは空疎で空虚です。人の人生に影響を与える事が出来るものを全く持っておらず、善悪を判断する本能に何の影響も与えず、最終的な目標について何も約束しません。シントーを復活しようとする全ての試みが必然的に失敗せざるを得ないのです。それがキリスト教に対する防壁としてであれ、あるいは仏教の代わりをするものとしてであれ(仏教は宗教的な要素がたくさんあり、人を満足させるものがたくさんあり、たとえ満足できなくても人間が本質的に求めるものをたくさん持っているのに)です。


  以上の記述は単にシントーの概略にすぎません。しかし最も綿密に仕上げた学術論文でも、せいぜい私たちの考えが作り上げた宗教というものに対するシントーの完全な空疎さを効果的に論述し、日本人のようなとても知的な人々の間でシントーが依然としてその地位を保っているという驚きを喚起する程度のことしかできないでしょう。シントーは中国人や日本人の性格の特徴となっているあの祖先への畏敬の念と密接に関係しているという事実及び日本全体に広がっている様々な宗教へのあの全般的な無関心という事実の中に横たわっているといえば だいたいその説明になるでしょう。全く実体のない不毛な信条で人々は満足し、義務を課されることも犠牲を要求されることもなく、「来るべき審判」に対する恐怖を示唆されることさえないのです。