だいぶブログを書くのをサボっていました。

ここのところ、彼女の事を忘れかけていたので、書く気持ちも薄らいでました。

 

前のブログののちに、彼女と別れることを決めました。

最後はどうなったかと言うと、電話で大ゲンカをしました。

喧嘩の理由はいろいろとありますが、ここでは割愛します。

電話の最後の方で、彼女に「二度と連絡して来ないで!」と罵声をあびせられ

一方的に電話を切られました。

 

やれやれ、やっと終わったって気持ちになりましたが、心の中はなにかモヤモヤした気持ちと

今までの付き合いは一体なんだったんだろうという虚しさだけが残った。

 

大声で二度と連絡をしないでといわれたので、おそらく、ラインはブロックされただろうと思い、確認すると

やはり、ブロックされていた。

 

まあ、いいだろう、こちらから連絡することはもうないだろうから

別にそれはどうでもよかったが、翌日、彼女からラインが来ていた。

喧嘩のあとにすぐブロックしたくせに、「仕事、頑張って!」という短文のメッセージだった。

 

もちろん、返事はしなかった。

何を考えているのか、すぐさまブロックを解除して、メッセージを送ってくるなんて、自分が言い放った言葉も忘れてしまったのか・・・

 

愛されることを求めるが愛されないのは何故なのか?

 

(以下は、なるほどと思った誰かのブログの引用です)

 

愛されること、
例えば、気にかけてもらうこと、気にしてもらうこと、
見てもらえること、話を聴いてもらえること、大切にされること、
電話してもらえること、メールしてもらえること、
励ましてもらうこと、応援してもらえること、
信じてもらえること、抱きしめてもらえること、

 

だが、こうした愛情は、たくさんもらえる人と、もらえない人がいる。

愛されることを求め、必死に誰かを求めている人がいる。
だが、愛されることを求めるがゆえに、
誰にも愛されない、という変な悪循環があるのだ。
愛されることを必死に求めている人は、
だいたいにして、他人から避けられてしまう。

人は、愛されることを求めていながらも、
他人に愛してくれとせがまれると、とても面倒くさくなる生き物みたいだ。
例えば、「かまってちゃん」なんていうのも、そういう人間を侮蔑する言葉だ。

逆に。。。

幼少期からたっぷり愛されてきた人は、
愛されることにいわばお腹いっぱいになっているので、
愛されることを期待することなく、人を愛することができる。
 

愛されることの素晴らしさを知っているがゆえに、
そういう人は他人を愛してあげようとするのだ。
で、その結果、その愛してあげた人から愛情を受けることになる。

自分のことをしっかり見守ってくれる、
そういう存在であるがゆえに、人はその人を愛してしまうのである。

 

何が言いたいかというと、


愛されない人は、愛することができないために、愛されないままであって、
愛される人は、愛することができるがゆえに、ますます愛される、
という「循環構造」がある、ということだ。

 

他人のために動ける人は、結果的に愛されてしまうのである。


なぜならば、その人は他人のために動けるほどに素敵な人だからだ。

が、逆に、他人のために動けず、自分のためだけに動く人は、
結果的に誰にも愛されないのである。


なぜならば、その人は自分のためにしか動けない人だからだ。

愛する人は、ますます愛されてしまい、
愛されない人は、ますます愛されない、という・・・

どうしたら、愛情に欠けた人は愛されるようになるのか?

どうしたら、幼少期の愛情不足は解消されるのか。

愛されないで苦しんでいる人たちと出会うたびに、

本当に胸が苦しくなる。

結局、「あなたが変わらなければ、今の苦しみは終わらない」、
という、とても陳腐でありきたりな言葉しかかけられない。。。

 

恵まれた愛情環境の中で育った人は、
愛情が充足されているために、他人を愛し、
そして、多くの人に愛され、尊ばれる。

 

だが、恵まれない愛情関係の中で育った人は、
愛情が不足しているために、他人を憎み、不審に思い、
そして、おびえ、苦しみ、愛されずに、敬遠されてしまう。

 

どうしたら、このクソみたいな悪循環を断ち切ることができるのか。
もちろん恵まれた愛情環境の中にいる人はそれでいいと思う。
ラッキーだっただけだ。自分の実力でもなんでもない。

 

けれど、アンラッキーでしかない恵まれない愛情環境で育った人は、
その悪循環を断たねばならないのだが、どうしたらいいのか分からない。

で、それが分からず、そして焦り、
そして、ますます愛されることを求めてしまう。
 

「あなた」が変わらなければ、「あなた」は今後も愛されないままであろう。
でも、愛することができないからこそ、苦しんでいるのだ。


どうしたら、これまで愛されなかった人は、
愛されることを期待しないで、他人のために、
他人に即して、他人を愛することができるようになるのだろうか。

 

愛することに長けた人と出会うしかないのだろうか。

愛される実感がない人間は、
愛されることに安心ではなく、不安を覚えるのだ。
なぜなら、愛されるという経験がないがゆえに、
それがどういうことなのかが分からないからだ。

故に、
「これが愛されるということなんだ」
ということをきちんと身をもって学ばなければならない。

そこに何か答えがありそうな、なさそうな・・・

うまく伝えられないけれど、そういうことを今日は考えました。

 

おわり・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女の家にはギターが2本あり、1本は自分のである。

彼女にギターを教えるために、1本では教えるのが難しいので、私のギターを彼女の家に置いてあるのだ。

 

彼女のギターはあまりで音が良くないので、彼女はいつも私のギターで練習していた。

 

ある音楽フェスの帰り道、ギターの話になった。

 

「この前、○○楽器に行ってギター見てたら、店員さんに、試し弾きしてみませんか?って言われてさ、ちょっとだけ

弾いてみたら、ネックが細くて、握り具合がとってもフィットして、弾きやすかったよ!

たぶん、そのギターならMちゃんもFコード楽に押さえられると思うよ、やっぱりギターにしても、スポーツにしても

道具は自分に合ったものを使わないとね!」

 

「えー、そうかな ゴルフとかスキーはそうだけど、ギターは腕だよ、腕!」

 

「でも、そのギターって高いんでしょ?」

 

「そんなに高くなかったよ、3万円くらいだったような・・・」

 

「じゃあ、時間あるから、見に行こう!」

 

車の中で、そんな会話をしながら、楽器店に向かった。

 

「これだよ、さっき話したギター、弾いてみたら?」

 

「めっちゃ弾きやすい、ネック細くていいね!音もすごくいい!」

 

「気に入った、これ買う!ATMでお金おろしてくるから待ってて!」

 

こんな感じでそのギターを即決で買ったのである。

 

さっきまで、ギターは腕だって言ってたくせに、いつもコロコロと考えが変るのだ。

 

一週間後、彼女の家に行った時

 

「どう、新しいギター?弾きやすい?」

 

「うん、前のと全然違う、Sちゃんのギター、もう邪魔だから持って帰って!」

 

冗談ではなく、マジで言ってきた。

 

唖然とした。

 

新しいギターを買ったから、もう、邪魔モノ扱いである。

さんざん人のギターで何か月も練習しておきながらそんな事を良く言えるもんだ。

 

これまでも何度も彼女に言われた言葉に違和感を感じていた。

 

相手の気持ちを考えることができない自分本位な言葉。

こんな風に言ったら嫌な気持ちになるだろうなと思う想像力の欠如。

 

こんな人と出会ったのは人生で初めてである。

 

 

 

 

 

彼女にパジェロミニを渡して、数日後にこんなラインでの会話をした。

 

「明日、そっちの方に(彼女の家の方)に用事があるから、ちょっと寄ってもいい?」

「明日から、仕事始まるから、居ないよ!」

「そう、仕事決まったの!良かったね、今度はどんな仕事をするの?」

 

彼女は介護士以外の仕事をするかもと言っていたのでそう聞いた。

 

その返事はなんと!

 

「なんで?」

 

どんな仕事をするのか聞いたのに、帰ってきた言葉は「なんで?」であった。

意味がわからない・・・

 

本当はそこで、なんで?なんでって聞くのか問いたかったが、会話するのもアホらしくなったので

 

「じゃあ、仕事頑張ってね。」とだけ返信した。

 

全く会話にならない、自分で自分の言っていることがわかっているのだろうか。

 

もう、一気に彼女に対する自分の気持ちが冷めていく様な気がした。

 

機嫌がいい時には機嫌がいい態度や言動、そうでない時はあからさまに嫌な態度や言動。

 

機嫌が悪い時は自分の気持の持ち方であるから、相手にそういう感情を押し付けずに

自分の機嫌は自分で直せと言いたい。

 

もう、こんな彼女とは会話すらしたくない。

 

彼女の嫌な言葉のせいで、こちらが参ってしまうのはもう耐えられないと感じた。

 

その日から一か月くらい、彼女にラインや電話するのを止めてしまった。

 

続く