猪名川タイムズ メモ日記 (創立1983年 改 2014.05)

猪名川タイムズ メモ日記 (創立1983年 改 2014.05)

かつて演芸とナツメロのマニアックサイト『猪名川タイムズ』をやっていた間賀凜です。更新停止から5年経過して、紆余曲折があり、その間に歌を別名で歌うようになったりしましたが、日々の活動などの日記を綴って行きます。

※もうかなり前の事なのだが、facebookとInstagram読んでたら擦り切れのダイジェスト版なので、今、正式版を改めて書く。
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 2024年8月24日土曜日に『郷土芸術江州音頭 二代目桜川唯丸会』の今節初めてにして千秋楽の受け持ち櫓のファンの皆様にはお馴染みながら、交通不便のため、私の自宅(大阪市旭区)から自転車で行くのに推定片道6時間(ホントはもう少し早いかも🤔)は掛かりそうな、京都府綴喜(つづき)郡宇治田原町湯屋谷(ゆやんたん)の『恒例湯屋谷灯篭祭り大盆踊り大会』を務めてきた。

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弊会主二代目桜川唯丸が長年主任を務めて来た私の母校の後身校の『水島→砂子→水桜小学校 秋祭り盆踊り大会』は図らずも8月初旬に依頼が無かったので会主二代目以下の会員全員が

「嗚呼…」

と深いため息を着いた。
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当日、5日前に唯丸会グループLINEでスケジュールと出欠を調整、決まったことを速攻で手分けして当日の出演メンバーが、LINEをインストールしてない会員に連絡して調整するのが、この数年間の常となっている。

自分の役割は、一旦、独立してた11年間も、唯丸会と別で、セクシーシスターズ(唯幸&唯岐美)、唯正(辺高正) 、唯玉、唯清師匠の『桜川唯清(野村)ファミリー』司会と音楽監督をしていたが、人前で音頭を取るのは、自分がゲストで呼ばれるライブだけ、と、決めてたので、人前で取る事は無く、音頭恩人の一人でもある唯由里も知ってたけど

「師匠には言わんといてくれ!」

と予め言ってたので、モヤ~んとしか二代目唯丸に話してなかったのは、さすが姉弟子たる矜持アッパレであった。

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で、脱退は2004年シーズン直前。

2006年、名物踊り子で入門時から可愛がって頂いてた、とび喜代姉とタコさんに自然と師事する様になり、音頭より踊りが楽しくなって来た唯正兄の逆状態(踊り子から音頭取りに転向)でもエエかな!?と思ったが、

1999年と2001年に未だに二代目唯丸に謝って無い最初の危機が訪れる(多分、謝らないと思う)。

それは、

『ベース&ギター&キーボードを一切演奏しない』

という事であり、三叔父(唯清師匠+唯正兄+唯玉兄)に相談。

唯清師匠は

「音頭もやっと聴けるもんになって来た。でも、楽器も上手なのにもったい」

唯正兄貴は

「お前、鳴り物で入ったけど、嬉しがって(ベースとギター)弾いてるんか?

キーボード叩いてるんか?

エレクトーン8級なんやろ?!」

で、自分の意思は固まったが、一見飄々としてるが芸の鬼で私的浪曲の師匠でもある唯玉兄に委ねると

「もう、気持ち決まってるんやろ!?。

ほんならくっさん貫けよ!」

と『御三家(まだ御大にはお会いしてなかった。いつも行く100円ショップの店主と後に知るので面識はあった)』と自分が最初から想っていた事をこの道に引き入れてくれた方々とほぼほぼ同意見で、躊躇しながらも、毅然とした態度で7年中の前修業期の内、楽器する事を放棄した2年間だった。

2004(平成16)年の休会直後からは、小6の時に組んだバンドのネタを作り替えず、かつて務めてた数社の円満…ではなかったけど、元正社員で勤めてた会社の付き合いのあった先輩たちの引き合いで茶話会とかに出たり、知人友人を訪ね歩き売り込んだりする日々が続く。

中でも、葬儀師時代の故岡野真夫師匠(1942~2017)が千林駅前で美和夫人と経営していたスナックの手伝いをしていた時は、文字通り、筆舌には尽くせない修行の日々となった。

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その時のネタの内容は明治末期~戦前の大ヒットメロディと、嘉門達夫師匠や所ジョージさんとか、コミックソング、懐かしのテレビアニメ&特撮主題歌の声真似で歌うモノマネショーをアコーディオンとギターを駆使してやってた。

これはブレジネフ(初めて作ったバンドの後身デュオ。唯丸会入会と同時に解散(1979~97)後に猪名川タイムズ創業社たちの『最高の詩人故飯塚銀次』、『ラジオのセミプロリスナーで嘉門師とのかすがいとなった中村田隆一』、だいぶ後で知り合うことになる『猪名川タイムズ社初代副社長→六代目社長&ワサンボン5g社社長 流行音楽もコミックソングもドンと来い!新田DELUXE宗男』と編み出したオリジナルのコミックソングも歌ってた。 

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 2023年!

四代目桜川房丸大叔父師匠に『寺方提灯踊り』で表向きは脱退したことになっているが、昨年の寺方提灯踊り大会で初めて四天王以外に真の理由を四代目にお話すると許された。

その際、

「そうか…あの時、君も辛かったんやな…。

でも、今のうちに…声の出るウチに精進しぃや!」

と仰って頂けた。 

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 昨年、普段陽気で朗らかな唯清師匠が5分遅刻して烈火の如く怒った。

それはきっと、先年不慮の事故で亡くなられた龍虎兄さんの追悼の意味がこもっていたからだろう。

で、努めて陽気に振舞おうとする私を察して

「無理しなくて良いから…」

と寂しそうに微笑み、いつもの様に無理して私のマシンガントークにキレがなかった事を理解してくださったのだろう。

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で、今年である。

10分遅刻すると、既に唯清機材車にびっしりと、音頭の音響機材がビッシリと既に積み込まれていた。

しかも、クーラーは効いていたが唯清師匠も私もクーラー病なので入門以来頓着(問題)ない。

と、いうのも、最初は『音頭界のアラン・ドロン』『音頭界の水木しげる』『音頭界の毒蝮三太夫(石井伊吉)』などなどのキャッチフレーズを付けて、司会を唯清会=野村ファミリーでやってた。

唯清師匠に訊かれた事は隅々まで答える。

昨年とは打って変わって、例年通り、出発から到着までずーっと喋ってたので安堵したが、櫓が減る、ということは、会員達も集え無くなるし、月1の稽古も、その櫓(舞台)感覚を忘れないためのものであり、公開練習をどのぐらいの期間をしていたのか知らないが、どの道、自分はあのまま退会しなかったとしても、音頭幻想と現実に幻滅して江州音頭を遅かれ早かれ諦めていただろう。

会員たちの囃子ひとつひとつの『息』を合わせる物なのだが…。

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例年通り、唯清師匠と話してて、あっという間に宇治田原町湯屋谷の会場に到着する。

メンバーは車に分乗したり、途中待ち合わせたりで、2人の欠席者以外全会員が早い時間に揃った。

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が、我々の乗ってきた唯清号の荷物をバラしたら師匠唯丸が言ってた機材が積まれてなかったらしい。

で、『江州音頭界の京マチ子』の異名を取る唯岐美の車に移動し、唯清師匠は唯清邸までトンボ帰りした。

その間、唯丸師匠の指揮の下、唯玉兄、唯由里、ウンちゃん、

いきなりの変更は困るし、お囃子の練習も会員が綿密に一年間してるのに、ゲストの方がまた今年も突然耳障りであとで踊り子様方やファンの皆様方に昨年の砂子小学校で言われた。

ゲストの方の大ファンだったはずのすうじぃさんが昨年頭を抱えていた。

が、李さん以外は音頭取り、一番末席の私とて、11年間脱退して他会派にも数回出てる。

ので、お陰様で囃子と太鼓🥁は出来る。

で、ゲストの方の会社の社員さんらしい人の独特の太鼓にも、悲しいかな、もう慣れてしまったので、李さんが奏でるエレキのシャッフルリズムのビート、唯由里が奏でるキーボードとリズムマシンのリズムに合わせてリズムも狂わずに読めた。

と言うより、自分としてはきみ姉か唯玉兄か唯清師匠に叩いて欲しかった太鼓…まさかのゲストの方の太鼓🥁!😭

これもファンの方々に聴いてて停めた。

私の次はゆり(唯由里)姉だ!

小生は元来キーボード奏者として入会したので、ワイヤレスマイクで『〆文句』を歌いながら櫓を降りて、囃子文句の

『ソラ ヨイト ヨイヤマカ ドッコイサノセ』

の間にキーボードは交代する。

これは四半世紀やって、阿吽の呼吸が合わないと交代出来ない。

いい感じのギターの間奏で手固くフォローしてくれるウンちゃんのギタープレイも今年で参加してコロナはあったものの8回目の櫓シーズンだから為せる技だ。

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会員全員が一丸となって、どうにか、遂に唯一の櫓になってしまった『湯屋谷の灯篭祭り』を努める事が出来たが、唯一となってしまったとはいえ、一回一回の櫓に自分なりに注力は出来たとは思うが、全体的に音頭櫓は激減している。

ましてや地元(北河内地方)での櫓が遂に消滅したのは由々しき事では無く、予め、少なくとも私もと他の会員たちは

『どう動いて存続させれば良いのだろうか!?』

と、いうことを自分も含めて弊会のことと自分の芸題を如何に存続させるか、と、言うことが理解出来無かったので、『来るべき時が来てしまった…』と傍観するしか無かったと思う。

再々言っておくが、私が恥を忍んで各櫓に出向き、旧知の師匠方や先生方…踊り子様方になぜ顔を出すのかの真意を、上記の彼ら(ファンの皆様方)はモヤッと理解して下さっていることも見えてきた。

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つい数年前、復帰後やってた会員間の
連絡役を唯由里に交代してもらったのは、筆頭弟子の自覚を持って貰うためだが、交代した途端に元々出来たのだろうか、想像以上の働きで運営を回してくれていて、唯岐美と唯幸は従来通り、女性ならでは気が付くべき部分で、筆舌に尽くせぬ位動き回ってくれている。

李さん(うんちゃん)もレギュラーゲストながら楽器演奏のみでは無く、設営などを手伝って下さっている。 


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 そうして、時間を合わせて、少しづつ積み上げて行く物であることを理解して頂きたい。

ま、今後、何年音頭を私的に取って行くのかは分からないが、そうした根本的な事を理解して頂きたく思う。 


 (了)

昨年春から夏にかけて3ヶ月、父政宗が入院し帰宅。⁡⁡⁡⁡入院したのが昨年の4月中旬で退院が7月下旬。⁡⁡⁡⁡⁡で、それ以後初めて父の介護というよりサポートをして戸惑いながら、⁡⁡⁡⁡『いて欲しい、サポートしてくれ!』⁡⁡⁡⁡と言われたのでしてた。⁡⁡⁡⁡が、今年の7月末に⁡すっかり復調した父(会長 猪名川タイムズ社会長 楠元政宗 85)5⁡⁡⁡「もう俺は復調した。身体は衰え、耳は遠くなったが、もう大丈夫だから家にとっとと帰れ🤣😡」⁡⁡⁡⁡と言われて、ようやく自宅のある大阪市内に帰ってきた。⁡⁡⁡長い長い1年3ヶ月であった。その間、会長に生活を見てもらってたのは、30年迷惑を義母を通じて掛けられた償いだと、私だけではなく、近所のコミュニティの方々や、ここに書ける範囲ではザキミヤなどは困ってたらしいのでそう信じている。死して42年を経過した母千鶴子は未だに、皆、懐かしんでくれると言うのに、義母は良い話を死んでから訊いた事が無いし、生前付き合いのあった人の弔問もなく、その息子の義兄(認めてませんが便宜上)が来るぐらい(彼の家族もほぼ法事しか来なかったので信じられない🤦‍♀️)。⁡⁡⁡⁡政宗が半世紀変わりなくこのコミュニティで生きて居られるのは彼自身が持つ人としての人間力、他者に対する優しさや思いやりがあまりここに来て生活し出した半世紀前と何ら変化が無かった…と、私の知らない期間の話を、最近は話すことも減ったが、私が7歳…もしくはそれ以前から知る人々たちに聞く。 で、やっと本題。私は幼少期から両親と長じて父が私を預けた山下甲一郎師匠(『演芸とナツメロの猪名川タイムズ』初代編集長 筆名 レイモンド山下 1948~?)に叩き込まれた料理の腕前が、コックを辞めて32年衰えていないことに気が付き、再び手の込んだ物を作る様になった次第なり。

昨日、和やかな雰囲気で『手見せ』を堺筋本町の『ミュージックスポット聰音~satone』で終えてから、結構したたかに疲れたので、帰宅途中に京橋を通り過ぎた時、最近、すっかりご無沙汰気味の『音楽居酒屋ハイファイブ』の前を通り過ぎ様としたら今日のイベントの看板が書いてあって、面白そうなのと、少しご無沙汰気味だったので入ってみた。



詳らかに書くと、こちらのお店は完璧な音響素材と、置いてある楽器も店の人に話せば、触らせてくれる、ミュージシャンにしてはなんとも贅沢で心地よい空間で、頻繁では無いがかれこれ10数年、度々行き音楽話に興じてくれる心の置けないスポット。


安西マスター(たかっさん)も、あまり年齢も変わらず、出身地もマスターが大東市、私が隣の門真市という同郷意識も働き以来、気安くさせて頂いている。


書き殴られた今日の演目を示す立て看板には『JAZZセッションナイト』と書かれてあり、面白そうなので吸い込まれる様に入場。


まだ、お客さん=演者も余り来てなかったので、いつもの楽器置場に余裕を持ってギターや荷物も置いて、いつもの様にドリンクを頼みオールスタンディング。


当然というか、知己のある人はいないが、横に居られた、同世代と思しき、『シュッとした』出で立ちのお兄さんと、年齢もさほど変わらず話し合うと、今まで聴いてきたJAZZ中心の話しで盛り上がり意気投合。


このお兄さん(以後、寺川康隆さん)は腕に学生時代から腕に心得があり、ドラムスを担当、大学でも関西では名の通ったサークルに参加されておられたが、社会人になり、少し、そうした現場から離れていた。


で、近年、昔取った杵柄で再びドラマーとして復帰されたという御仁。



寺川さんがステージに向かわれ、彼のドラミングに耳を傾けると、まんまプロのテクニックで度肝を抜かれた。


ドラム 寺川康隆さん

こういう時の自分は、心を、車のギアに例えるとニュートラル

の気持ちで聴かないと演者に対しても失礼だと、想うし、ベースだったり、キーボードなどの自分も演奏する楽器には注視する癖が付いている。


幕間に寺川さんにもう1人、彼と同じ奈良から来られた、お若いプロドラマーの奥瀬健介さんを紹介して頂く。


ドラマー2人の語らい。向かって左 奥瀬健介さん 右 寺川康隆さん(ピンボケごめん!)


ドラマーは同イベント主催の阪井ちょくさん。和やかな会場風景。


昨日の土曜日夕方に全国放送されたフジテレビの『ミュージックフェア』に演歌歌手島津亜矢のバックでドラムを叩いておられ、その事が場内騒然だった。


と、いうのも、吉本興業所属のタレントのハイヒールモモコさんは、実父が作詞家故山口洋子の実兄で、義父の故松井洋々(ひろし)先生は関西アコーディオン界の重鎮の1人にして、戦後より様々な大御所歌手の、関西公演時の生演奏を数々担当をした事でも知られている。


奥瀬さんも、特に島津亜矢や他の有名歌手が関西に来たり、ツアーごとに再編する『専属バンド(ハコバン)メンバー』という訳では無いそうながら、譜面通りに叩ける事が必須なので、その演奏には、ひとたび叩くと『パッ』と世界が変わったのを昨日聴いて当たり前ながら驚いた。


左から見切れてるよどまが、奥瀬健介さん、寺川康隆さん


興に乗って私も歌いたくなり、スタンダードの『Fly Me to the Moon』を歌ってみたが、生まれて初めて、本格的に設えられたJAZZステージで歌ったので、江州音頭のデビューぐらい緊張した。


白熱したステージは切れ間なく、次から次へと様々な演者たち、即席だったり、旧知のコンボのメンバーたちによって繰り広げられてゆく。


カッコイイ!テナーマン

ギタリストさんも良い笑顔!

店内風景

店内風景

ツインギター

コンボメンバー勢揃い(?)

途中、一人だけ、知った顔の女性ボーカリストが参加してた事にしばらくして気が付く。


が、2度ほど『枚方宿ジャズストリート』の自分が長年音楽監督を担当していた『御茶屋御殿跡地公演会場』に出演した楽しいスタンダードJAZZを演奏した男女デュオの女性の方の方じゃないか?。


応対とかステージングも完璧な朗らかで、そのジャズスト出演時の印象が深かったのだが、昨日はなんかやさぐれていたので、別人だったら失礼なので、ライブ終わってから、恐る恐るお声掛けすると、やはり前出の男女デュオ『るいタッチ』のボーカリストの夢前るいさんだった。


この日もそうだが、『この人は!』と思う方々にしか私は寄り付かないし関心も持てない。


鼻が利くというのだろうか。伊達に小六の時(1979=昭和54年)からバンドやったり、様々な諸芸の修行をしてきた訳では無い。


最後にあまりにも面白く、次も参加したいので、主催者の阪井ちょくさん(ドラマー)に


『また出ます!ありがとうございます!』


と言いface𝖻𝗈𝗈𝗄の友人になると、なななんと!私の音頭伴奏の相棒でもある李庸恩(リ・ヨウウン)さん(ウンちゃん)と繋がってたので、どこに行っても迂闊なことは言えないですね。


そんな、朝から晩まで一日中ミュージシャンでいることの出来た清々しい一日だった。


(了)





2024(令和6)年9月23日(月 秋分の日)。


今日は、自分がステージに戻るための勘を取り戻すために、今年の6月下旬から参加している堺筋本町『ミュージックスポット聰音~satone オープンマイクの日』だった。


最初に参加したのは6月の同イベントで、7月下旬に続き、先月はタイミングが合わず、今月出演をすることになった。


同店の岸田浩一マスター兄は、今から15年ほど前に、私が師事していた趣味と生き様の恩師の故庄内斉(1948~2015)師匠が天六で経営されていた『ブックカフェ ワイルドバンチ』に来店された時に、たまたま、私も来店して紹介され、以後、実際に会うことは無かったながら、Facebookでのやり取りは、初対面の頃からしてたし、一昨年に私が糖尿病に罹患した折、心細くてオロオロするばかりの私に、手を差し伸べて下さり、相談に一番深く乗って下さった事に寄り、以前よりも増して近しく交流する様になった御方である。


で、6月以降も私は『聰音オープンマイク』を、『ワイルドバンチ』閉店後の『音楽道場』として定め、極力参加する事にしたのである。


今回の参加者は私一人だったので、聴いているのは、甲斐甲斐しく動いて下さる岸田マスター兄と差し向かいだが、自分の中では、お客様方も居られて、聞いてくださってる風景をイメージしながら、オープンマイク=ワンステージを務める事が出来た。


その根底には、私の江州音頭の師匠である『四天王』の内、桜川唯清(ただきよ)師匠と辺高正(ほとり・たかまさ 旧名 桜川唯正 ただまさ)兄師匠の


『目の前のお客様方の人数の多い少ないで力の入れ加減を区別するのは芸人とは言えない』


の言葉が、教えを乞うた1997(平成9)年から変わらず刻まれてる。


それは、各種配信(YouTube、Pococha他)をする時も同じである。


で、岸田マスター兄も、用意した曲の内容、ステージングなどに付いて真摯に助言を毎回授けて下さるのである。


今回は自分も、まだ、盆踊りシーズン(踊り子として各櫓への参加。本分は江州音頭取り!)が終わっていない事もあり、告知なども出来なかった物の、今回もマスター兄の的確なアドバイスに助けられ、次回に繋げるのである。


歌ってます。
『構成作家四人組』の内、一番長く共に活動してる新田(DELUXE)宗男(正体等一切謎の人)と作った『鳥』(2010年)を拾い上げてくれたのも岸田マスター兄。
出会って幾星霜ながら、お会いした時と印象の変わらない岸田マスター兄と。

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さて、次回は10月5日(土)の昼、私が梅田の大歩道橋でストリートライブを始めた2009年に、同所で共演して以降、交流させて頂いている東京のパワフルママシンガーの芽愛利(めありー)・Jさんの大阪ライブが堺筋本町の『LiveSpot 聰音~satone』で行われます。  
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 たった1人でステージでピアノを叩き弾き語る姿は、パワフルで華やかなバーレクスショーを彷彿とさせるステージングに圧倒され、彼女自身のひとりの女性としての生き様などが垣間見える『ひととして生きる』彼女の優しくて広大な歌世界に心打たれるでしょう。『きっと、誰かに優しくなれる』そんな彼女に歌世界にそっと触れて見ませんか?

 *芽亜利・Jさんの経歴は『wikipedia』にも掲載されてるのでご参照ください⬇。

 https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%BD%E4%BA%9C%E5%88%A9%E3%83%BBJ 

 ※⁡幕間ショー淀川徳丸⁡⁡ ⁡
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 チャージ 2500+1500(飲食代)円===== 
 『ミュージックスポット聰音~Satone』http://musicspot-satone.com/

皆さん、よろしく幕張!


カラオケブームが巻き起こった昭和から平成初期に開店し、令和と長年親しんだ猪名川タイムズ社創業地近くの『旧ブルートレイン  門真団地店』が今年(令和6=2024年)の初頭に閉店してたと先週帰省の折に知った。



よく門真在住中は度々、故飯塚銀次(1967~2011)や、付き合いが無くなった中村田隆一(1967~)と、旭区に移転する2006(平成18)年頃まで来てた。


それから、前の江州音頭の前の稽古場が、公開練習に移行してからマナーの悪い一部の踊り子さんや観客のせいで使えなってからの仮の稽古場としての一つがこのカラオケスタジオだった。


はっきり言って唯丸会の頃の記憶は皆無に等しい。


自分としては、二十歳過ぎの頃から、飯塚と中村田と来た時の思い出しかないが、ついに来年、俺の出身中学の『門真市立第四中学校』も、先日、漫才二人目の相方でお馴染みのムネーキに盆に連絡した時に


『小中一貫校になるでぇ!😭』


と言われ、遂に北巣本幼稚園(空き地)→南小学校(市立門真住宅)→門真市立第四中学校と無くなり、中退した大阪市立愛珠幼稚園(日本で三番目に古い公立幼稚園 卒園してたら73期生)のみ、私の学び舎は残らない事になった( ̄▽ ̄;)。


ここでコミックソング…嘉門タツオ兄師匠と心の師匠所ジョージさんの



少し前の事、先週の日曜日8月25日 日曜日の事を書きます。

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前日の8月24日土曜日に私の所属する江州音頭会『郷土芸術江州音頭桜川唯丸会』は、京都府綴喜郡宇治田原町湯屋谷(ゆやんたん)の『ゆやんたん灯篭まつり盆踊り大会』で今シーズンの務めを終えました。 


唯丸師匠もこうして見ると年齢相応(もちろん四半世紀してる私も)

『湯屋谷灯篭まつり盆踊り2024』の模様。
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 で、その興奮が覚めやらないまま、あまり寝てなくて、前日の『寝屋川まつり』(於 寝屋川市打上貯水池公園 2024年8月24~25日)一日目は大盛況の内に終わったと、人気地元密着型サイト『寝屋川つーしん』のライブルポ(速報)で知りました。


親戚会派では、何度も共演歴のある御大初代桜川唯丸(86)筆頭弟子の唯行(ただゆき)師匠(90)が率いる『郷土芸術江州音頭 桜川唯行会』と、一度1998年に寝屋川市岡山の櫓で共演歴のある地元寝屋川の桜川虎丸師匠率いる『高宮日和会』と、演歌歌手並木順でもある鉄砲光之助さんの『並木順社中』が出演されました。並木さんの枠は、かつて故鉄砲光三郎師匠と故鉄砲博三郎師匠の各々の社中が務めていて、光三郎師匠は長らく寝屋川市香里園にお住いだったからでしょうか?。

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で、今日、25日 日曜日は『亀一流安丸会(かめいちりゅう やすまるかい)』会主で『私たちの音頭兄貴!』の異名で知られる六代目歌亀=三代目吾妻家安丸(あずまや やすまる)師匠が主任をお勤めになられることが予め分かってたので楽しみにしてました。


安丸師匠の他の出演者は、師匠と交誼の深い、大和川を越えた堺の河内音頭取りの『河内音頭 堺家小力丸(さかいや こりきまる)社中』と、私も僭越ながらInstagramをフォローしている『泉州音頭(せんしゅうおんど) 幸玉(こうぎょく)会』のご出演なのも、早々に知っていたので、ワクワクして待っていました。=====



17:30頃、大阪市内の自宅を出て、自転車で会場を目指す途中、御大初代桜川唯丸が、修行中の青年時代に、古い古い江州・河内音頭を学んだ初代唯丸音頭遺跡『神田天満宮』を途中偶然発見し、しばし、この境内で盆踊りが行われていた頃の事に想いを馳せます。余談ながら、ウチの指導役の一人桜川唯玉(ただぎょく)叔父兄がこの辺に長らくお住いで、近隣の盆踊りに度々聴きに行ったりします。で、色々道中あって、18:30頃に会場に到着しました。


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舞台では、寝屋川を本拠地と定め活躍してるミュージシャンたちの白熱したライブが繰り広げられてて耳を傾けながら、周囲を散策します。疲れたので周囲に目をやると、踊り子さん達の控え室テントが張ってあり、お世話になってる踊り子グループ『勇士会』の竹内会長とご子息がおられたので、「やあやあ」とご挨拶します。会長とは同い年ということもあり、休会前から踊ってくださる顔なじみであり、昨年5月の住道駅前の『大東音頭会の初夏盆踊り』にて、ようやく復帰後にご挨拶をさせて頂き、ご縁も復活致しました。



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それから、顔馴染みの踊り子さん方々にご挨拶したり、唯丸会の事を訊かれたりします。


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気を抜いてると、Facebookで動画を揚げて下さっている南田さんに遭遇。


彼女の揚げる動画とYouTubeで動画を揚げてくださるdodongoさんの動画は音頭雀たちの間では双璧で、音頭取りのみならず踊り子さん方も注目、参考されています。



⬇南田さんが撮って下さった私



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それから、私の音頭恩人で、復帰数年前から共に江州&河内音頭を研究しているあうんさん・すうじぃ改めすうじぃさん(50 東寝屋川駅周辺出身)も夫人と連れ立って来てました。度々、彼ともタイミングが合えば盆踊りに行きますが、今年の研究活動は例年よりも少なかったものの実りの多い夏となりました。


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実は7月末に京阪電車萱島駅前の『萱島神社奉納盆踊り大会』で盆踊りを通じて仲良くなったFさんという妙齢の女性の方と待ち合わせしてたのですが、彼女もお友達とお見えになるだろうから、服装を一応気にして行きました(してなかった!仕事帰りみたいでゴメン🙇‍♂️)。


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そうこうしているうちに、舞台は吉本興業の漫才師2組(テレビで見る人々)が来て漫才をしてます。


余談ながら、安丸師匠は、サッカーと芸達者の芸達者の方のDonDokoDon山口さん(四條畷出身)の地元の先輩です。


※ミサイルマン左が岩部さん(将軍様)と右が西代さん(吉本興業)


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しばらくフラフラしてると、惜しくも8月上旬に逝去された二代目近江源三郎師匠(『湖国芸能 江州音頭 源五郎節 近江会』会主)の筆頭弟子の近江秀丸さんがおられたので、改めてお悔やみの言葉を伝え、この夏のシーズンの事などの『音頭取りトーク』を数年ぶりにしました。


彼と私の『江州音頭入門動機』は類似していて、その事に互いにシンパシーを感じ入り、出会って約10年、以降、気安くさせて頂いております。


久しぶりの対面(今年の『門真市立大和田小学校』の櫓は踊りに行きました)で、数年ぶりにじっくりと短い時間ながら話すことが出来て嬉しかったです。


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その後、小腹が減ったのでフランクフルト食ってお茶を飲みながら会場内を徘徊します。挨拶するのが、邪魔くさい時はマスクしてますし、息苦しくなったりした時はマスク外して堂々とします。


これは御大と辺高正兄叔父に学んだ事。


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ライブが終わって、中規模ながらの花火大会。それが終わっていよいよ盆踊り大会が始まりました。


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露払い(一番手、景気付け)に登場したのは主任安丸師匠率いる『亀一流 安丸会』から、師匠のお弟子の吾妻家高丸さんから。私も前修行中に一度だけやりましたが、その度胸は並ではないことだけ言っておきます。師匠譲りの耳馴染みの良い節で詠まれてました。


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二番手は『河内音頭』の堺家小力丸(さかいや こりきまる)師匠。見た感じお若い...ひょっとしたら、私どもと同世代の方かも!?。


北河内&中河内と南河内は同じ河内音頭でもガラッと変わる部分があり、柏原とか奈良とかに行くと独自の節が生まれたりと辿れば面白いです。


それは、意外と近隣の音頭会でも交流が無かったりなので、会派ごとに寄って違う場合も多々ありバリエーションも豊富だと伺います。とても弾むウキウキする様な音頭で気持ちも高まり、楽しく踊れました。

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続いて、『泉州音頭 幸玉(せんしゅうおんど こうぎょく)会』の皆さん。泉州の音頭会は『泉州音頭〇〇会』といって名乗るのが普通で、『吾妻家』とか『桜川』の様な屋号となる苗字は無いみたいです。


たまたま、そばで聴いてた秀丸さんが


「僕の好きなええ節なんですよ!」


と、言うので幸玉師匠の音頭を聴いてると、なるほど、耳馴染みが心地良い、御大や先代の故河内家光司師匠の音頭を聴いた時に近い、ダイナミックさを感じ、秀丸さんが言った意味をすぐに理解出来たので注目したいと思いました。


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会派の会是は


『他所の会派の音頭は聴かなくても良い』


という師匠も中にはいるみたいなんですが、それは全然納得出来ないし、その事には入門以来反発しているので、二代目唯丸師匠からすれば煙たいんじゃないでしょうか?。


弟子5人中3人が別の表現活動やってますし。


そら、そう言う師匠も他にもいるだろうけど、何事も好きになればなるほど


『もっと聴きたい!踊りたい!』


という人は音頭取りでも踊り子でも多いと思ってるし、少なくとも私は、芸、正業別なくいろいろ知っておきたいし体験したいのは、音頭に限らず、どんな仕事してても同じだと思っています。


ましてや、私はベーシスト&キーボーディストで入ってすぐ辞めるつもりでしたが、もう四半世紀も、下手くそだけどやってます。


今では生きてく上で大切な財産となっています。


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さて、いよいよ『音頭兄貴!』安丸師匠の登場です!。


ポイントポイントで交誼頂き、休会してた時も、演者としての相談に乗ってもらったり、独立時の一シーズン(2011年 私の親友飯塚君逝去の年)『淀川徳丸』として出させてもらったり、他会派ながら、常に教えられ、意識していたし、初対面の時に門真市巣本のレストランでお会いして、『芸人としての華』を感じていました。


『寝屋川まつり主任』が二代目唯丸から交代したと訊いた時、ウチの師匠には悪いけど『やっぱりな!』と思ったものでした。


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いよいよ『亀一流安丸会』のファンキー江州音頭が始まりました。


安丸師匠、ギターの弦丸兄さんとドラムスの鼓若兄さんもその時からの馴染みのご先輩で、以後、ご厚誼を師匠同様にいただいています。


それと、社中の皆さんとバンドメンバーも力の入ったダンサブルな聴いて良し、踊って良しの『新しい時代の江州音頭』を呈示してくれて、グイグイと自然に身体もウキウキして踊って来ます!(写真が抜けてるのはそういう意味。踊りに集中して踊ってたから)。


曲の間にナツメロを差し込んだりします。


従来だと歌謡曲を芸題(げだい)の中に『九段の母』(塩まさる テイチク 1939)や『満州娘』(服部富子 テイチク 1938)を差し込むのですが、亀一流安丸会はイントロ聴いて「へ?。コレって山田パンダの『落陽』(1976年 岡本おさみ詩 吉田拓郎 曲)やんけ!?」と、心の中でつぶやき、戸惑いましたが、恐らく、この曲に何かの想いを込めて安丸師匠も詠唱したのだろうと想い、その心意気は理由は分からないけど、この時、この曲を聴いた事を忘れないだろうと思いました。


ここで、亀一流安丸会の演奏を復帰後、今年もきちんとした形で聴いて、そのバンド形態の黎明期をも聴いてきた1人のファンとしては、とても拍手喝采の脱帽モノだったのを記しておきます。


私も終始踊ってる間中、自分が置かれている状況や、一人の音頭取りとしての残念さやいろんな感情が蘇って来ては消え、蘇っては消えるの繰り返しであり、復帰以降、実は毎年一度は『ただのファンに戻ろかな...』とか思いもしましたが、『亀一流 安丸会』の熱演に、そんな気持ちも杞憂に過ぎず、はげまされたことに、感謝の意味を込めて、拍手喝采を送るのでした。


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終わってからFさんとようやく合流出来、先程の興奮をまくし立てる様に話します。


まさに想像以上の満足さから、楽屋口の安丸師匠を訪ね、労いの言葉を掛けて、写真を一緒に撮って頂きました。



撮影をしてくれた同行のFさんを見て


「え?くっさん(私の本名楠元から)、奥さん?彼女さん?」


と、言われて


「ガールフレンドですよ…」


と、所在なげに答えると、間髪入れる間もなく速攻でFさんに


「いえ!違います!(キッパリ)」


と、言われ、頭かく私。


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写真を撮ってもらってから


「また、連絡します!」


と、お声掛けして、途中までFさんと一緒に帰り、興奮冷めやらぬ道中、今日の盆踊りの事をいろいろと話し合って、彼女を見送り、古川橋の吉野家で遅い夕食を摂って、珍しく実家(門真団地近く)に寄らずに、まっすぐ家に帰りました。



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まだ、いくつかあるけど、私の今年の音頭シーズンも大円団を無事に迎えることが出来たと想います。


もっともっと俺も頑張らんと!


(了)

今から1時間ほど前に、いきなり知らない携帯番号から電話がかかって来たので、やましい人生を送ってるので間違え電話か、物売りのセールス電話かとドキドキしながら電話を取った。


スマホでポチッと押すと、クソバカ丁寧なので、音頭界か、音楽関係者、まさかの私のファンかと思った。


やたらと芸能人や音頭界並にバカ丁寧な口調の男の声。私の警戒は頂点に達していたが、自己紹介の時に


「もう、お忘れかも知れませんが、僕、まっちゃんです!」


と、懐かしい趣味の後輩で私のブレーン四天王で猪名川タイムズ六代目社長の『新田宗男(デラックス)宗男』にそっくりな『まっちゃん』からだった。


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私は2009~10年まで1年間大阪駅前の大歩道橋でストリートライブをしてた時に、自然発生的に出来た『淀川徳丸後援会(現在は解散)』の主要メンバーで、礼儀正しく、スタッフにこそ誘わなかったが、甲斐甲斐しく働いてくれた1人だった。


「忘れる物か!君は一番頑張って応援してくれてたから、忘れるはずないやろ!」


と答えると、あの当時の口調そのままに、私に負けない高いテンションでたっぷり1時間話しきった。


今の37歳年下の友人の神谷くんもそうだが、私よりも13歳年下のまっちゃんはあの頃のままで、1年間とはいえ、濃密な時間と空間を共有した同士的なポジションのナイスガイである。


彼は酒に強く一緒に呑みに行ってもブレなく、顔は2枚目なのに、古武士の様な礼儀正しさと、礼節を守る人なのに、テンションが高いので、初対面とか知り合って間もない多くの人に誤解されてきたと思う。


たった一言10年前の事なのに、その当時のメンバーとは、解散直後にリセットし、彼の電話番号も解散後5年ほどして消去した記憶がある。


ま、人と人の付き合いなんて得てしてそんなモノだということを私は知っている。


話題もつるんでた時当時のママだったので、体力はマラソンで全力疾走したほど中身の無い会話ながら、その話題も2人の中では共通な言語で例えるなら『言葉の格闘技』で、電話を置いて、ドーンと横になった。


よく、シラフでもテンションの高い私は、仲良い慣れた人は良いが、あまり知らない人には「静かにして!」

と言われるが、まっちゃんの場合は、自分と同じ共通言語で話すので、不思議とウマが合っていたので、その離れてた時間は頓着(問題)は無いのだった。


電話を置いて、激しい運動をしたぐらい肉体的には疲れたが、再会の約束を果たし、再び彼との付き合いが始まることにワクワクしている夜であった。

(了)



⬆ストリートライブをしてた『大阪駅前大歩道』(Googleアースより)

 



本社なう(2023/09/12 19:29:55)大阪王将の餃子を2枚焼いた🥟🥟🥟。会長(実父)のコンビネーションサラダ🥗🥗🥗待ち。また、本社禁煙に戻る🚭過ごしやすくなったが、蚊に足🦵🏿🦵🏿を噛まれてクソ痒い😣

出来た!美味なり😋😋
今日は会長が無事退院して1週間。⁡
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⁡『日本カルト芸人ふたたび』の原稿書くのと、会長の世話します。⁡
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⁡入院時ほど実家の用事に忙殺されてまへん✌️。