もうひとつ、ぼくがトコロジストを実践しようとおもった理由がある。それは、ぼくの子ども時代の記憶にさかのぼる。


 ぼくは、1964年に東京で生まれ、その後すぐに名古屋市郊外の岩倉市というところに移り住んだ。岩倉市はちょうどそのころ人口が増加する名古屋市のベッドタウンとして町から市に昇格されたばかりのニュータウンだ。そこに新しく建設されたマンモス団地が物心ついたぼくの最初の住処になった。


 1964年と言えば、東京オリンピックの年。そう、ぼくは高度経済成長期の申し子のような世代だ。ぼくの親父は国産靴メーカーに勤務するサラリーマンだった。親父の会社は、ちょうどぼくが生まれる少し前に、アメリカの某有名靴メーカーと業務提携を結んで、日本人のためのブランド靴の製造販売を始めた。そうして日本が豊かになるのに歩調を合わせて、会社がどんどん大きくなっていった時期だった。全国には営業拠点が次々と開設され、会社の命令により親父は様々な地方の営業所に転勤していったのだ。


 ぼくたち家族も親父についていったので、ぼくは子どものころから転校を繰り返していた。小学校4年生から中学2年生までの5年間で、岩倉市(愛知)、広島市(広島)、西宮市(兵庫)、名古屋市(愛知)と4つの土地に住み、小学校は3校通い、中学校は2校通った。小学校4年生から中学生というと、ちょうど体力がついて行動範囲も広がり、いよいよその土地に深く関わろうという時期だ。そのような時期に、ほぼ1~2年に1回という頻度で引越しをしていたため、ぼくには、何年もかけてその土地のことを知ったり、馴染んでいったり、という経験がなかった。


 だからだろうか、子どものころからぼくは自分の住んでいるところへの執着心が薄かったように思う。ある土地に引っ越してきたら、その日から無意識のうちに「今度はいつ引越しするのかな」などと考えていたようなところがある。


 もちろん、いろいろな場所に住めるというのは、いろいろな文化に触れられるということでもあるのでいいこともあった。だけど、住む場所に対してはどこかで覚めていて、あまり思い入れをもたなかった。しかし一方で、ずっと同じ場所に住んでいて、自分の暮らしている場所に根付いている同級生のことは少しうらやましいと感じており、子ども心にいろいろな土地を渡り歩く根無し草の気楽さと物足りなさを感じていた。


 その後、成人し、就職してからもそうした傾向は変わらなかった。やがて結婚し、そして子どもが生まれた。生活する場所に執着を持たないと言ったが、様子が違ってきたのは子どもが生まれたあたりからだ。子どもができると、当然住む場所に無頓着でいるわけにはいかない。 子どもに十分な運動をさせようと思えば、家のすぐ近くに安全に遊べる公園が欲しいし、できれば自然が豊かであるに越したことはない。子どもが少し大きくなってくると行動範囲が広がり、親としてはいろいろと気になることが増えてくる。


 特に娘が「乳児」から「子ども」になってきたあたりから、ぼくは「このままでいいのかな」と考えることが多くなった。子どもが生まれたころ、自分の子にはこんなこともしたい、あんなことも一緒にしたいと考えていた。しかし、いつの間にか忙しさにかまけて、子どもと向き合うことを忘れしまっており、そうしているうちにも待ったなしで子どもたちは成長する。


 「親はなくとも子は育つ。」というが、たくましく成長してくれればいいのだが、先に述べたとおり、たまに外へ連れ出しても、手や洋服に泥がつくのを嫌がったり、虫を触ったり土や水を触ったりということが苦手な子になっていた。その様子を見ていると、手遅れにならないうちに、何か生活そのものを変えなければならないのではないかと漠然と不安を感じていた。


 浜口先生からトコロジストというお話をうかがったのはそんなことを悶々と考えていた時期だった。直感的に、自分がそのとき感じていたモヤモヤ感を乗り越えるヒントがそこにあるような気がしていた。ぼくは、浜口先生のトコロジストのお話の中から、自分が子どものころに経験し忘れてきたものを無意識のうちに思い出していたのだと思う。


 よく「子育ては自分の子ども時代をもう一度生き直すことだ」という言葉を聞く。確かにわが子を見ていると、自分が子どもの頃のことがよみがえってきて、「自分が子どものときに経験したことを子どもたちに伝えたい」という気持ちがわき起こってくる。


 しかしぼくの場合はそれだけではなく、「自分が子どもの頃に自分が経験できなかったことを、もう一度子どもと一緒にやり直したい」という気持ちもわき起こってきたのだ。


 それは、小学校4年生以降、ほとんど1~2年ごとに引っ越しを繰り返して、一つの土地に深く関わるプロセスを失っていたということだった。そして、自分の子ども時代に無意識に「物足りない」と思い続けていたことを、子育てをする中でもう一度やり直そう、トコロジストという言葉がそのきっかけになるのではないか、そう感じたのだった。


 ともあれぼくは、「トコロジスト」という言葉に出会い、仕事だけでなくプライベートでもこれを実践してみようと、一念発起することになったのだ。