生まれも育ちも福島で今も福島に住んでいる。当時私は3歳だった震災のことは幼いながらも微かに覚えている。

2011年3月11日午後2時46分岩手県三陸沖を震源とする最大震度7の地震が発生した当時は福島県に住んでおり地元は震度5強という大きな地震に見舞われた。当時自宅は築4ヶ月という新築で亀裂等など目立った傷は見られなかった。幸い家族全員に怪我はなくこれで終わるだろうそう、誰もが感じていた。

大津波警報が発表されたと福島中央テレビのアナウンサーが必死に伝えている。当時幼かった自分はよく分からず日本の太平洋側を点滅する赤と白の線や赤の線、黄色の線をただ眺めていた。ここは海からも離れているし標高も高いため津波の心配はなかった。 

あれから3日が経った2011年3月14日午前11時01分頃自宅がある場所から32km離れたところにある福島第一原発で爆発事故があったとの情報があったとの情報が入った。避難準備区域に指定されたものの幸い放射能による大きな被害は受けず避難は間逃れた。その後は1週間程度の屋内退避などを余儀なくし、しばらくは外で遊ぶのを控えた。空き地や広場にはたくさんの仮設住宅が建てられ子供たちが元気に遊べる場所は消えつつあった。小学校に入学してからも甲状腺検査だったり首からかけるようなものをつけさせられ放射線の検査などが行われた。あれからもうすぐで12年私は福島県双葉郡双葉町にお邪魔した。原発はもう目と鼻の先にあった。解体できず放置され傾いた住居などが数多く存在し双葉病院や郵便局ガソリンスタンドがあの日のまま止まっていた。柵の外は帰還困難区域の場所も多くあり積み重ねられ処分できない瓦礫や原型を留めない軽乗用車などが残されていた。とても悲しい想いになった。

故郷を追い出された人、故郷を無くした人避難者はのべ16万人にのぼったそうだ。

今年処理水の海洋放出が決まったものの世間では物議をかましており当県でも意見は割れている。放射能の理解はまだ浅く未だに差別や偏見をする人なんかがいる。今後どのように復興、復旧していくかが今後の課題となる。私たちの願いは放射線による被害を私たちで最後にしてほしいそう、心から願うばかりである