1回目の記事を書き、再びキーボードを打ち始めた今日は8月15日。
終戦記念日です。
私の伯祖父(大おじ)である正徳が、戦死となったのは30歳の時でした。
1回目の記事を書き、再びキーボードを打ち始めた今日は8月15日。
終戦記念日です。
私の伯祖父(大おじ)である正徳が、戦死となったのは30歳の時でした。
「義烈空挺隊」の一人の隊員について、私が知っていることを書き残します。
義烈空挺隊についてはWikiなどに詳しい情報がありますので、そちらをご覧ください。
まず最初に、ここに書かれていることは、全てが事実とは限りません。
当時のことを証明できる人間が、もう殆どいないためです。
2020年の7月、唯一の生存している兄弟であった私の祖父が97歳で鬼籍入りとなりました。
また、当時のことや本人を知っている身内も少なくなり
少しずつ少しずつ、その人の生きた軌跡さえ消えて行ってしまうことを寂しいと感じた。
ただただ、それだけが文章に残そうと思った理由です。
命をかけて、義烈空挺隊として飛び立っていった一人の隊員が残した足跡。
鹿児島知覧の平和祈念館にも、残されていないこと……
ただそれだけを、思い出せる限りで、この場所に残していきます。
もし当時の本人を知っている方や、同機に同乗されていた義烈空挺隊のご遺族が
このブログを見かけることがありましたら、ご迷惑でなければ、どうかメッセージをください。
もう本人に繋がる人や歴史が、殆ど残されていないのです。
私は、7番機に搭乗していた「操縦担当:中原正徳准尉」の姪孫です。
(平和祈念館の写真には、二階級特進のため中尉となっています)
鹿児島県出身。 出身校は関西大学。
平和記念館の記録では、撃墜されブーゲンビリアにて戦死となっています。
兄弟は本人を含め4人以上、その一番下の弟が私の祖父でした。
2020年に義烈空挺隊の写真や遺書などが沢山公開された「~遺書~」というイベントがありましたが
当時は東京や大阪で、新型コロナウィルスの感染が拡大していた時期でした。
こちらが大阪ということもあり、鹿児島まで直接見に行くことはかなわず
せめてもと思い、電話で連絡を取りました。
本人ものや写真が、何かひとつでも残っていないかと……
自分が隊員の姪孫であることを告げると、とても親切に応じて下さいました。
ですが、本人のものと思われる遺書や写真などは、見つけることが出来ませんでした。
唯一、「氏名不明」とされている隊員の一人に、これがそうではないか、という集合写真がありましたが
はっきりとそれを証明することは、誰も出来ませんでした。
現在は大切に額縁に入れて飾ってある たった数枚の写真を残しているのです。
それ以外の全ては、なにもかも台風で流されてしまった、と聞いています。
ですが、台風に流され、失われてしまったものを覚えている人がいました。
それが私の祖父や祖母です。
祖父が存命中に聞いたこと、その家に嫁いだ祖母から聞いたこと
その話の、記憶が色褪せてしまう前に
ここに書き残していきたいと思います。
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