はじめに、かじょうがきで,かいていくことにしよう。

1)婚約は、唐沢心園(からさわみその)から もうしこんだ(2015.1がつ)
2)唐沢心園は、だいがくにりゅうねんし、けっか、たいがくとなり、婚約がいやになった。(2015.3がつ)
3)そのごは、婚約をきゃんせるしようと、ひっしであった。
4)にもかかわらず、けっこんをじょうけんに、わたしを統一教会に、にゆうしんさせた。(2015.7がつ)
5)まいつきのように、唐沢心園は、でんわでないて、けっこんはいやだ、となきわめき、また、じしんがあくたいをわたしにとっているのは、きらわれるためであり、それは、ちちおやのしじであることをばくろしていた。
6)2016.1がつ、わたしがこんいんとどけのきにゆうをでんわいらいすると、とつぜんいらだち、きゃんせるした。

おわかりいただけたでしょうか、[きゃんせるは、わたしのせきにんではない!!]というこを。

では、じゅんにでは、じゅんにせつめいしていこう。
1)唐沢心園は、[みよりのいないわたしとけっこんして、じしんがてんごくへいくため]に、わたしに婚約をもうしこんでいる。これは、きりすときょうけいのかんがえのいっしゅで、じこぎせいのあいというものである。ここで、だいじなのは、ふぼは、さいしょからこの婚約にはんたいであったということである。統一教会のるーるでは、[2せいは、2せいどうしでけっこん]というものがあるからである。
2)3がつと、9がつの2かい、唐沢心園は、しんがっきしょにちにせんせいにおこられて、じゅぎょうをぼいこっとして、りゅうねん、たいがくとなった. そして、[もうかんごしになれないから、けっこんはいやだ。かんごしになれば、こうきゅうだった。]とないていた。いっぽう、ここでだいじなのは、ふぼは、ちちがたのそぼからのしょうかいで、いしゃとのおみあいをもってきていた。唐沢心園は、そのいしゃとけっこんして、かねもちになりたかったのである。
3&4)そのため、わたしのせきにんにして、婚約をきゃんせるしようとひっしであった。ふつうなら、しゃざいして、きゃんせるするものであるが。。。さらに、けっこんをじょうけんに、統一教会に,にゆうしんさせたのは、じょうきをいっしている。。。
5&6)唐沢心園は、わたしにひどいことをしていることをじかくしていた、それが、ちちのしじであることも。。。そして、さいごは、婚約をきゃんせるした。

じかいは、この唐沢心園のあくたいのけつまつについて、せつめいしていこう。