瞑想するときに完全に目をつぶるときもあれば半眼の時もあります。


指導者によってその時その時で言われることも違うでしょうし、瞑想の内容によっても使い分けられているでしょう。

 

一般に座禅などでは半眼を指導されます。

釈迦が悟りを開いたときの瞑想の状態であると言われるため、釈迦の仏像は半眼の状態が多くなっています。


弥勒菩薩などの慈悲深い系の仏様も半眼が多く、不動明王などは目を見開いて降魔の姿勢をとっています。

 

禅宗などの日本の仏教では様々な解釈があり、半眼で座禅することの理由として眠気を防ぐためであるとか、この世とあの世の両方を観ているとか様々のようですが、そういう風に指導して理解させているのだなと思います。

 

18年ほど前から気づいてはいたのですが、クンダリーニが上がりしばらくして落ち着くと、目を閉じるとグルグル回る渦のようなものが瞼の裏に見えるようになりました。


横一列に三つ見えます。真ん中がいつも少し大きいです。


この世的な雑念が多くて多忙な時期などには見えなくなったり薄くなったりもするのですが、瞑想などをしていると常に観えます。

 

同時にかなり周波数の高い音域の音が頭の中に鳴り響いています。


これは静かになった時には常に聞こえます。

 

いろいろと調べましたが確証の取れるものがなかったので一部の人に話す程度でしたが、おそらくは見ている三つの渦はチッタ(記憶や感情のカス)みたいなものでこの世の生活でできたカルマの渦かもしれん。


これは強引に観ようと思えば、サウナの後に冷水に長時間使ったりすると見えたりもします。

でも危険なのであまりお勧めはできません。


人によっては滝行などの心身の浄化の過程で浮き上がり見えることもあるのかもしれません。


または文献などではイダー、ピンガラ、スシュムナーの管の流れであるとも言われます。

いずれにしてもチッタが絡みます。

 

そしてシーッとかキーンとかいう音は、最初耳鳴りかとも思いましたが耳鼻科に行っても異常はないわけで、どうもクンダリーニがあがったりしたら聞こえ出す「聖音」と呼ばれるもののようです。


これも文献によっては、イダー、ピンガラ、スシュムナーの音であると書いてたりします。

 

いずれにしてもこれらのことは、当時から長いこと適当に流してる状況で過ごしてきたわけです。


しばらくして三つの渦の中央の部分に意識を集中してるとその渦が消えていき、強い光を放つ小さな点が時折現れることに気づきました。

 

静寂と安堵の中で出てきた光ですので、直感的にこの強い白い光は聖なるものであると感じたのですが、その時は何が何だか分かりません。


どうも調べていくとこれが「真我」(アートマン)と言われるもののようでした。

 

この光は瞑想のたびにその反応が違うので面白いのですが、時折は蛍のように動き回り消えてしまうこともあれば、近づいてきて大きくなったと思うと、私自身がその光の中に融け込んでしまうこともありました。


だいたい追いかけると逃げて消えてしまいます。

 

そしてその真我、アートマンの中に融け込んだ時は、広大な大海が現れその中へと取り込まれていくのです。


これも後ほど調べていくとブラーフマンと呼ばれるものであることが分かりました。

 

数年間は放置していましたが、この現象から始まった数々の謎を解くために私はヨーガの世界に入り、多くの学びをさせていただき、ヨーガ教師の資格まで取得していくことになるのです。


ヨーガの方面からの探求はかなりの疑問を解消してくれました。

しかし、なかなか聞いてもこのようなことを知らない人が多いのです。


ですから、ヨーガのみに固執せずに、自由に他の分野からの真理の探究を行いながら、この世の生活もしていくことになります。

 

さて本題ですが、様々な瞑想法などを世界的にも有名なマスターなどから指導していただき、多くの新しいことを体験しながら探求は進みました。


そこで最近は純粋に「真我」を探求する瞑想法を行っておりました。


10年前にはあまりピンとはこない内容でしたが、やっと理解したような状態です。


つまり現象が先にきていため、10年かけて追いつけたのです。

 

結局、以前から私としては知覚していたアートマンの探求を深く掘り下げていくのが一番大切なことであると分かったのです。

 

瞑想を始めると自然と耳鳴りのような聖音はマントラの役割を果たし、目の前の渦はヤントラの役割を果たして、真我の奥深くへと入っていきます。


マスターから提示されるものはすでに自分の内側にあったのです。

 

そのような状態が続きますと、静かに座る時間は増えていき、眠っていても目覚めて瞑想に入っていたりします。


夜は寝てるのか瞑想しているのか、区別できないような状況になってきます。

 

そしてまた少しずつ気づきが増えてきます。


半眼でいるほうが渦がよく見え、アートマンが現れやすく、集中しやすいことに気づいたのです。


半顔の下部の現世の光とは対照に、闇が強調されてきます。


半顔の大半を占める上部の闇の部分にくっきりと渦は浮かび上がり、アートマンが現れやすくなります。


つまり半眼の真実の意味としては、真我の探求をする上では半眼の方が極めてやりやすいという事です。


アートマンと繋がりやすくなるのです。

眠気を防ぐためとかいうのは表向きの薄っぺらい方便に過ぎません。

 

これはサラリと隠されているところなのでしょう。



そしてもう一つ、ババジというインドの聖者の絵を見ると黒目が上に向いていて、何とも変顔になっています。


これも様々な解釈がされているようですが、私の体験ですとこの状態での瞑想を続けた場合、やはりすごいことが起こるのです。


半眼からしばらくリラックスして眼球を上にゆっくりともっていくと現世の風景はそのまま見えますが、まるで絵でも眺めている静止した状況になります。

 

そして、上に向けた眼球と共に見え出すのが松果体に集まるエネルギーとそれが天へと向かうエネルギーの流れなのです。


つまり、アジューナチャクラとクラウンチャクラのエネルギーの状態が観えるのです。


天(セントラルサン)からのエネルギーと地(地球)からのエネルギーの交差する様子がこの状態の方が観やすいのです。

客観的に観察し易いといいますか。


ああ、だからババジの目はこうなんだ。と妙に納得したのでした。

 

このあたりの話は、あまり書籍では見た覚えがありません。


あくまでも私の体感によるものが中心ですので、信ぴょう性にも欠ける部分もあると思います。


ただ、「真我」(アートマン)からブラフマンそしてセントラルサン(宇宙の根源)への道筋をはっきりと体感しだすと普通に出てくる現象なのかもしれません。

 

 

                          了