最近、日本の社会全体が「コンプライアンス」という言葉に過敏になり過ぎてはいないだろうか。法令遵守はもちろん重要だ。しかし、その運用があまりにも杓子定規で、息苦しさを感じているのは私だけではないはずだ。
「ご出身はどちらですか?」
かつては当たり前だったこの一言すら、今や「プライベートな詮索」「ハラスメントに繋がりかねない」と躊躇される風潮がある。もちろん、相手との関係性や聞き方、状況によっては配慮が必要なのは言うまでもない。しかし、純粋なコミュニケーションの糸口としての質問までが封じられかねない現状は、あまりにも窮屈ではないだろうか。
ファッションや持ち物について「そのネクタイ、センス良いですね!」と褒めること、あるいは部下や後輩に対して「もう少し、こういうデザインの方が顧客受けが良いかもしれないね」とアドバイスすること。これらも「個人の感性への介入」「ハラスメントだ」と捉えられかねないという。
確かに、個人の尊厳を傷つけるような言動や、執拗な詮索、威圧的な態度は断じて許されるべきではない。ハラスメント対策の重要性は論を俟たない。しかし、現在の風潮は、その本質からやや逸脱し、「石橋を叩いて渡らない」どころか、「石橋に近づくことすらしない」ような、過剰な萎縮を生んでしまっているように感じる。
この「過剰な忖度」とも言える空気は、私たちの社会から何を奪っているのだろうか。
一つは、円滑なコミュニケーションだ。何気ない会話から生まれる相互理解や親近感が希薄になり、人と人との間に見えない壁ができてしまう。結果として、チームワークが阻害されたり、新しいアイデアが生まれにくい職場環境になったりするのではないか。
そしてもう一つ、より深刻なのは、成長の機会の損失ではないだろうか。建設的な批判や多様な意見のぶつかり合いは、個人にとっても組織にとっても、より高みを目指すための重要な糧となる。しかし、「これを言ったらハラスメントと受け取られるかもしれない」という恐れが先に立てば、本質的な議論は避けられ、表面的な、当たり障りのないやり取りに終始してしまう。
このような国内の状況が、日本の国際競争力の低下や、世界からの取り残しに繋がっているという懸念は、決して杞憂ではないだろう。変化の激しい現代社会において、多様な価値観がぶつかり合い、そこから新しいものが生まれるダイナミズムこそが成長の源泉だ。過度な内向き志向や萎縮は、そのダイナミズムを根本から削いでしまう。
もちろん、これはハラスメントを容認しようという話では全くない。しかし、コンプライアンスやハラスメントという言葉が、思考停止の免罪符のように使われ、本来あるべき自由な意見交換や、時には愛のある叱咤激励までもが封殺されてしまうのだとしたら、それは本末転倒と言わざるを得ない。
私たちは、相手への敬意という大前提を忘れずに、もっと自由に、もっと建設的に意見を交わせる社会を目指すべきではないだろうか。些細な言葉尻を捉えて「ハラスメントだ」と断じるのではなく、その言葉の真意や背景を理解しようと努める寛容さも必要だろう。
コンプライアンスは、社会や組織を守り、健全に発展させるための「手段」であるはずだ。それがいつしか「目的」となり、私たちの手足を縛る「呪縛」となってはならない。この息苦しさから脱却し、日本が再び世界の中で存在感を示すためには、過剰な忖度文化を見直し、健全なコミュニケーションを取り戻す勇気が、今こそ求められているのかもしれない。