ゴマメの呟き・アンモナイトの徒然草

ゴマメの呟き・アンモナイトの徒然草

他所のブログを2つもっています。ぜひ遊びにきてください。

Amebaでブログを始めよう!

因果は巡る糸車(おばちゃんの昔話より)

その3

僅かな伝手を頼りに、郡上霧峰藩の城下町に流れてきた勘助は、口入屋の口利きで、慈恩院の門前に位置する、乙姫横町の穀物商、丸吉商店に、住み込みの手代として雇ってもらえる事になりました。

丸吉商店は、50歳台半ばを過ぎた、老夫婦二人だけで、ひっそりと、お米や雑穀類、豆類の小売りをしている、小さな、小さな、こじんまりしたお店でした。

だから、本来は、人を雇うような余裕などありませんでした。

ところが、悪い事に、主人の吉治が、その年、中風を患い、その後遺症で、左半身の多少の不自由さが残ってしまいました。

その為、医師からは、このままでは、中風を再発する恐れがあるから、出来たら、仕事は控えるように、もし続けるなら、くれぐれも無理をしないようにと、強く、釘をさされてしまいました。

しかし仕事を助けてくれる跡継ぎもおらず、さればと言って、その日暮らしの小さな商いで、糊口(ここう:暮らしを立てる、口すぎ、世すぎ)を凌いでいる身、今、商いを止める訳にはまいりません。

商売を止めたら、薬代に事欠くどころか、その日の生活費にも事欠きます。

故に、例え病気の再発による、命の危険があろうと、麻痺が更に悪化する恐れがあろうと、不自由な身体を鞭打ちながらでも、毎日、働かざるを得ませんでした。

商売の手助けをしてくれる、使用人を雇うのが、一番なのですが、吉治の所の台所事情では、他のお店並の給金を払う余裕がありません。

少しの給金で、なんとか人を雇えないかと、いろいろ考えた末、口入屋に「なるべく、商人の所で働いていた経験があり、直ぐに商いの助けとなるような人を探してほしいと思っています」

「なお、お給金につきましては、お店がこんな状態で、余裕がございませんから、今の所、お給金はあまり弾めません。虫の良い話で、来てくれる人が見つかり難いかも知れませんが、さしあたっては、三食と、寝る所の提供以外は、お小遣い程度のお給金で我慢していただきます。

その代わり、まじめに働いてくださって、この人ならと思うことができた場合は、私達の所は子供もいません事ですし、将来は、私達の後を継いでもらって、この店をやっていただくつもりでおります。

万一、その時、独立して自分でやりたいとおっしゃった場合は、このお店をお値打ちにお譲りしてもよいとも、思っています」

「また頑張ってくださって、お店を、今以上儲かるようにしてくださった場合は、その儲けの四分の一を歩合給として差し上げることにします」、

と言う条件で、探してくれるように頼みました。

その4

一般に、ある程度の商いの経験をもっていて、すぐに仕事の助けになる様な人材は、殆どが、ある程度以上の年令となっていて、既に世帯も持ちです。

だから。妻子を養う事ができるか、出来ないか、分からないような、そんな低いお給金では、話になりません。

こういった人達にとって大切なのは、将来の、実現するかしないか、はっきりしないような、あやふやな約束よりも、今日の確実な収入です。

従って、丸吉商店の条件に応じて、お勤めしてもよいという人は、なかなか現れませんでした。

そうした時、その条件でもよいからといって求人に応じてきたのが勘助でした。

勘助は、年こそ、丁稚奉公の年を過ぎていますが、本当は、それまで、一度も商売人の所に、お勤めをしたことはありません。

しかし如才のない勘助は、「私、商売こそ違ってはいますが、江戸では、備後屋さんという、酒屋さんの所で長い間手代をしていました。でも運が悪い事に、そこの旦那様が米相場に手をお出しになり、大損をされて、店を畳んでおしまいになりました。

だから、私、辞めざるを得ませんでしたが、お勤めしていた時は、お店の皆さん方から、結構重宝(ちょうほう:便利がられ役立って)がられ、可愛がられておりました。

従いまして、最初のうちは、扱っている物が違いますから、多少、戸惑うかもしれませんが、少しお時間をお貸し頂ければ、直ぐに要領を覚え、お役にたつようになることができます。

その条件で、構いませんから、是非ご紹介下さい。

きっと喜んで頂けるよう、しっかり働かせて、頂きますから。

もしお役に立たなかったり、お気にいらなかったりした場合は,何時、辞めさせられてかまいませんから」と経歴を誤魔化し、必死に頼み込んで、上手い具合に丸吉商店に雇ってもらえる事になりました。

丸吉商店の主人吉治は、勘助を見た時、直感的に、はっきりと口では言えない、胡散臭さを感じ、雇う事に、最初は躊躇(ためらい)をみせました。

しかし勘助には、殿様の、ご家来衆である、上村伊織様の請書が付いていましたし、吉治の側には、一日も早く,使用人を決めなければならなかった事情がありましたから、さしあたりということで、雇ってもらえることになったのでした。

西施像奇譚

その3

江戸での勘助は、霧峰藩の家臣、上村伊織家の日雇い小者として仲間小屋の一角に住まわせてもらっていたのは確かなようです。

しかし、時は江戸時代も末期近くで、江戸幕府による、米穀の出来高を基準とする、禄高性経済は行き詰まりをみせ、幕府は言うまでもなく、殆どの藩の財政が破綻(はたん)寸前の状態となっていた時代でした。

繭山幸直(まゆやまゆきなお)を藩主とする郡上霧峰藩も、その例外ではありません。

財政は逼迫(ひっぱく)し、借入金は増大の一途をたどり、まさに破たん寸前と言ってもよいような状態でした。

幸直(ゆきなお)は、財政立て直しのために、検見法の採用徹底と年貢の値上げ、藩内産品の取引にかける、取引税の増税等によって、収入の増加をはかると同時に、藩の経費を減らす為、

藩主自身も、その職に居る為に、余分の経費のかかる、幕府の寺社奉行職や、奏者番と言った、役職を辞任し、

註;奏者番(そうじゃばん);江戸幕府の役職、大名や旗本が将軍に謁見する時、姓名進物を披露し、下賜物を伝達する取次役


更に、一部家臣の解雇や、解雇をまぬがれた家臣達の更なる減石(げんこく:禄高の減額)などを行う事によって、藩の財政収支の改善を図りました。

これによって、それまでの減石よって、既にぎりぎりの生活をしいられてきた,八幡藩家臣たちの家計は、一層苦しくなりました。

殆どの家で、足軽、仲間(ちゅうげん)、小者、女中と言った、下働きの使用人達の人数減らしが行われました。

勘助もこの時、これによって辞めされた使用人の一人でした。

辞めさせるに当たって当主、上村伊織は、辞めさせる使用人達の便宜を図って、全員に、請人証を手渡してくれました。

その時の勘助は、上村家の使用人と言っても、正式の使用人ではありませんでした。

それより遡る事、数年前のことです。

勘助が20歳の時、故郷での居候生活の未来に絶望して、江戸に出てきたときの事です。故郷からでてはきたものの、手に職を持っているわけではなく、しかも、何の伝手(つて)も、もたない田舎者の勘助を、雇ってくれるところなどありませんでした。

途方に暮れていたその時、たまたま誘ってくれたのが、今一緒に、上村家の仲間小屋の一角に住んでいる男でした。

この男の紹介で、仲間小屋に無料で住まわせてもらえるようにはなりましたが、上村家に、正式の使用人として雇ってもらえたわけではありませんでした。

お伴の必要が出来た時だとか、力仕事や、汚れ仕事をする人間が必要といった、臨時の用事が出来た時だけ、日当で働かせてもらっている、臨時雇いにすぎません。

従って、お金は持たないけれど、時間だけは、たっぷり持っているという生活をしていました。

一般にそう言う生活をしていると、小人(しょうにん:君子に対する言葉で、仁徳や知識のない人の意・・出展は論語)は碌な事をしません。不善をなしがちです。

その日その日を食べていくためには、善悪を言っておれません。例え悪い事で有ろうと、良心に痛みを感じる事もなく手を染められるようになりがちです。

また明日に希望の持てない生活は、人を刹那的にします。そう言った人達に、もて余すほどの時間を持たせれば、よからぬ遊びに時間を費やすだけです。

{註:当時、こういった男達の遊びとは、博打と、遊所通い(ゆうしょがよい:遊郭、遊里の巷)と大体きまっていました}

勘助の場合も例外ではありませんでした。同じような境遇にある、他所の家臣の小者だとか、仲間達(ちゅうげんたち)、そして街の遊び人や無頼の徒などと群れて、一般社会の人間には許されないような、悪事や、遊びといった自堕落な生活を送っておりました。

所が、幸いな事に、勘助の、そんな一面をまったく知らない、上村伊織は、他の辞めさせる事になった使用人達と同じように、口入屋に差し出す為の請人書を、彼にも渡してくれました。

続く

西施像奇譚

(お祖母ちゃんの昔話、因果は巡る糸車より)

註1:西施・せいし・・・中国春秋時代、越の伝説上の美女の名前。

楊貴妃と並ぶ、中国古代における、傾国の美女の一人。

古代中国4大美女の一人で、彼女のあまりの美しさに、魚も泳ぐのを忘れ、沈んでしまったという伝説が残っている。

彼女、もともとは、貧しい洗濯女に過ぎなかったが、その美貌によって、越王、匂践(こうせん)に見いだされ、,越が呉に敗れた時、呉王、夫差の下に献ぜられました。

呉王、夫差は、まんまとその計略に乗せられ、西施の色に溺れ、政治を怠り、その結果、呉は弱体化し、後に越王に滅ぼされた。

呉の滅亡後は、彼女の美貌に越王、匂践が惑わされるのを恐れた、匂践夫人によって、皮袋に入れられ、長江に沈められたと言われておる。

更に詳しくは文の中ほどにある註をご覧ください。

註2: 奇譚・きたん・・・世にも珍しい話、

13年・01・24

FD15CD4に保存済み・・・・・・今後尚、掲載時、訂正加筆する予定

このお話はフィクションです。

史実、実在した人物、事件、とは全く関係ありません。地名についても、話しお構成上利用させていただいているだけで、そこに起こった実際の事件ではありません。

その1

郡上霧峰藩の商人(あきんど)丸喜屋藤兵衛は、集金の帰り、自宅への近道として選んだ林道で、道に迷って立ち往生してしまいました。

その道は、長良川の川下にある町や村へ出かける時は、郡上街道へ出るまでの便利な脇道として、いつも使っている、通い慣れた道でした。

ただ、その道は、鬱蒼と茂る木々で覆われ、昼でもなお薄暗い所があり、さらにその木々の梢からもれ込む木漏れ日を頼りに、地面には笹竹や、灌木がびっしり生い茂っていて、それらが、その林道の中まで入り込み、道を狭めたり、塞いだりしていて、行き先を惑わせます。その為、古くからの、町の住人たちでさえも、滅多にこの道は、使っていません。

藤兵衛もまた、その道は、日が未だ高い間だけしか、利用しないようにしておりました。

その日も、藤兵衛としては、日が暮れる前に、家に辿り着く心算でした。

その為、それに合わせて、その前の晩に泊った、関の宿は、早めに出立しました。

所が途中立ち寄った、上有知(こうずち:今の美濃市)での商談に、思わぬ時間をとられ、郡上街道から逸れて(それて)、この林道に入った時にはもう既に、日は、かなり西に傾いておりました。

藤兵衛とその手代、そして用心棒の三人は、道を急ぎました。

しかし秋の終りは、特に山中ではそうですが、日の落ちるのが早く、予定の半分の道のりも行かないうちに、すっかり日は暮れ、辺り一面が、すっかり闇に包まれてしまいました。

その上、悪い事に、彼らがその道に入って、間もない頃から、辺り一面に霧が立ち込め始め、その濃さは次第に増し、日がすっかり落ちる頃には、厚い雲の中に入った時のように、三尺(約一メートル)先も、見えないほどになっていました。

そんな霧の中を藤兵衛は、自分の感と経験だけを頼りに、自宅の方向へと、道らしい場所を手探りで探しながら、笹竹や灌木を押しわけ、押し拡げ、進みました。ともかく前へ、前へと進みました。3人とも無言でした。

所が、しばらく進んでいるうちに藤兵衛は、後ろから付いてきているはずの使用人達の気配が、全く感じられなくなっているのに気付きました。

慌てて、振り向いた藤兵衛の目に入ってきた物は、暗闇の中に拡がる、深い霧の世界だけでした。

大声で呼びかけても,返ってくる声はありません。手探りしながら後戻りしても、そこに人の身体を触れる事は出来ませんでした。

藤兵衛はいつのまにか自分が、この霧の深い夜の山中に、たった一人、取り残されてしまった事を悟りました。

遠くから聞こえくる、山犬の(註:昔は日本狼の事を、このようにいっていました)遠吠えが、不気味に耳に響きます。

気の強い藤兵衛もさすが慌てました。

こんな深い霧の中、方向も分からないままに、夜の山中を、闇雲(やみくも:むやみやたら)に歩きまわるのは大変に危険です。

滑落の危険性もありますし、転倒して大怪我をする危険性だってあります。

また動き回る事によって、ますます深い山の中へと迷い込んで、体力を消耗し尽くし、たあげく、衰弱死をした人達の話も、これまで、よく耳にしていました。

だからと言って、身を隠す物一つないこんな場所で、じっと一ケ所に留まっていれば、立ちこめる霧によって、衣服が、ビッショリ濡れになり、それに、秋の終りの、山中の冷え込みが加われば、凍死の危険性がでてまいります。

また、山犬や、クマに襲われる危険も否定できません。

進退きわまり、途方に暮れている藤兵衛に、はっきりとした形をとらない恐怖がジワリ、ジワリと襲ってまいりました。

その2

丸喜屋藤兵衛は、郡上霧峰藩の城下町、鶯谷地区に在る古刹、慈恩院の門前町、乙姫横町に店を構えている商人(あきんど)です。

米、楮(こうぞ:樹皮が和紙の材料となる)、麻、繭、木材、木炭、たばこ等と言った霧峰藩内の産品を、長良川を利用して、上有知(こうずち=今の美濃市)、関、岐阜、桑名等と言った川下の村や町に運んで、そこの商人達に売り捌き、代わりに、酒、塩、その他の食品、布。衣類、刃物、農機具、紙、化粧品などといった日用雑貨を仕入れてきて、藩内の小売店へ卸し売りしする事を表向きの生業(なりわい)としております。

藤兵衛は、もとはこちらの人ではありませんでした。

今から20年ほど前、江戸からこの地に流れてきた、勘祐と言う得体の知れない男です。

いろいろと噂はされていましたが、出自(しゅつじ:うまれ)が何処で、江戸の町で何をやっていた人間かと言う事についての、本当の所は、誰も知りません。

でも、トラブルがあった時などに見せる、一言で、人を震え上がらせるようなドスの利いた声だとか、人を震え上がらせるような、冷酷そうな、鋭い目つきは、彼がまともな道を歩んできた人ではない事を物語っておりました。

だから、それを一度でも目にした人達は、怖がり、警戒して、近づかないようにしました。

そして、そういった人の中には、いろいろな噂を流す者もいました。

しかし、そう言った真っ当でない人生を歩いてきた人にありがちなように、勘助は、平生、人に接する時には、別な顔を持っておりました。

すなわち人懐こそうな笑顔だとかと、柔らかな物腰、そして丁寧な言葉遣い、気風(きっぷ)の良さなどと言った顔を、合わせ持っていました。

そして、平生は、そう言った顔しか、人にみせませんでしたから、酷い目にあわされた事のある人以外は、良くない噂があるにも関わらず、普通につきあっておりました。