1年前、自分はどんな様子だったんだろうと思い、
震災当日にどんな様子だったのか、ブログを探してみた。
4月4日にアップされていたのね。
http://ameblo.jp/curel800/entry-10851687758.html
(骨髄バンクランナーの物語より抜粋)
東日本大震災が起きてから、ワタクシがまだ書いていないもの・・・
それは「震災直後のこと」です。
書こう、かこうと思っていても、なかなか手がうごかない。
決して怖くてかけなかったわけではありません。
なぜかかけなかったのです。
理由は自分にもわからないの、不思議でしょ。
震災から3週間が過ぎたので、震災当時のことを書こうと思います・・・。
長くなりますからねー。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆
震災当日・・・
ワタクシはラーメンを食べた後、秋保温泉に来ていました。
14:20
秋保温泉の共同浴場にいました。。。
14:37
お風呂から上がって、チョコモナカを食べていました。
駐車場から車に乗り、エンジンを付けた直後・・・
突然、揺れが来ました・・・
そのゆれは大きく、すぐにやむどころではありません。
激しい揺れ・・・
ワタクシはハンドルを強く握り、大きな声で叫んでしまいました。
「いやーーー、こわいよーーー」
周りの木々や建物、車は大きく揺れ、野良猫はあわてて逃げる始末です。
14:51
揺れがおさまったときに、カーナビのテレビをつけると・・・
どこのチャンネルも地震のニュースばかりでした。
駐車場の向かいにある、お店屋さんのおじさんがきて、一緒にテレビをみました。
しかし、その直後も余震が続く・・・
おじさんは一緒にお店で避難するか?と話を持ちかけられました。
しかしこのままだと、もしかしたら帰れないかもしれない・・・
そして秋保にかかっている橋も壊れてしまうかも知れない・・・
大きなゆれがこないうちに、ワタクシは秋保から出る選択をしました。
15:10
太白区茂庭周辺。
すでに停電していました・・・
もちろん信号もとまっていたので、交通状態がよろしくない。
信号が起動しないので、混乱している。
道の譲り合い?そんなのありません。
誰もかもが混乱しています。
最初は仙台の実家に行こうと思いました。
しかしワタクシの実家は仙台市の中心部。
信号が動かない以上、実家に帰るまで何があるかわかりません。
(実際、仙台市中心部は大変な交通マヒが起きていたそうです)
迷わず、村田町経由で自宅に戻ることにしました。
村田インター近く。
かわらが落ちています。
国道4号線、大河原バイパスっていうところでしょうか。
信号が止まっているので、交通マヒが起きています。
なかなかバイパスを越すことが出来ませんでした。
ダンナさんの職場近くにて。
道路が割れています・・・
場所によってはマンホールがでっぱってきたりしていました。
自宅に帰ってくるまでに、1時間以上のロスがありました。
自宅に帰る前に、職場に行ったワタクシ。
実は震度5以上で、職場に行かなければなかったのです。
職場に行くとみなさん避難していて、ケガもなかったようでホッとしました。
しかし、ワタクシは混乱状態で、職員に何を話していたのか記憶なし。
過去に3度の大地震を経験しているワタクシにとっては、地震は恐怖なのでした。
(宮城県沖地震、三陸沖地震、岩手・宮城内陸沖地震)
職場にくるまで、本当に怖かった・・・
ここまでこれたのも、奇跡だったんです。
もし仙台の実家にきていたら・・・自分は生きていなかったかも知れません。
少し落ち着いてから、自宅に戻ってくるとダンナさんがいました。
ダンナさんの職場は、急遽15時で終わったそうです。
ワタクシは職場に戻り、ダンナさんはダンナさんの実家にいきました。
それまでの約3時間、ワタクシは職場でお手伝いをしていました。
自宅に戻ると・・・
電気、水道はストップしていました。
外は寒い、情報がない、怖い。
ダンナさんは家の中で過ごそうといいましたが、ワタクシは車での中で過ごすことにしました。
ガスの確認はしていなかったので、とりあえず外でお湯をわかして・・・
夕食は備蓄してあった、カップヌードルでした。
お湯?なぜかやかんのなかにお水が入っていたんだよね。
おいしくいただきました。
震災当日の夜、なめ夫婦は車内で過ごしました。
テレビは一晩中、震災のことばかり。
ほとんど眠れないまま、朝が来ました。
3月25日の山元町周辺のフォト。
http://f.hatena.ne.jp/namemix1978/2011.3.25/
こちらは3.11当日の写真です。
http://f.hatena.ne.jp/namemix1978/2011.3.11/