匠の技と在り方に感動しっぱなしだった京都迎賓館ですが、

 

 

 

匠の言葉どおり

見えないところにも技を使い、手を掛けられています。

 

 

和食を提供する「和の晩餐室」である桐の間には

漆の一枚仕上げの座卓が配置されているのですが、

 

この全長12メートルという長さは

相当な挑戦だったようです。

 

 

そして座椅子の背には

 

日本国政府の紋章である「五七の桐」が

蒔絵で描かれているのですが、

 

その葉の配色を少しずつ変えており、

一つとして同じものは無いそうです。

なんというこだわり。

 

 

藤の間の舞台扉は

金箔とプラチナ箔で陰陽を表した截金(きりかね)で装飾されています。

 

 

截金の制作工程の動画を見たのですが、

竹刀で金箔を髪の毛ほどの幅に1本1本切り出し、

 

接着剤を含ませた筆と、

もう1本の筆を使いながら金箔を置き、文様を作っていくという

本当に気が遠くなるほどに繊細な技法です。

 

 

また、東西の建物をつなぐ廊橋の天井には、

トンボ、蝶、鈴虫、コオロギの

透かし掘りが施されています。

言われて見上げないと絶対気付かない…。

 

 

そして、釘の頭を隠し、装飾してしまおうという

そもそもの発想自体がおしゃれだなーと思う

釘隠(くぎかくし)。

 

釘隠として用いられているこちらの錺金物(かざりかなもの)は、

「結び」をイメージしたもので、

 

「人と人」、「国と国」を結びつける

という意味合いも込められているそうです。

 

 

ちなみに、前回ご紹介した藤の間の床に敷かれた緞通に藤の花が描かれていたのは、

 

綴れ織の技法で織った織物である壁面装飾に描かれた「藤の花」が舞い散った様子を表現しているそうです!

 

 

まさに、神は細部に宿る、の言葉どおり

見えないところ、細かいところまで

こだわり抜かれた建物でした。

 

 

ところで、古神道には

人は本来神である

という言葉があります。

 

神というのを

宇宙、創造主、魂、ハイヤーセルフ etc.

に置き換えてもいいと思いますが、

 

細部に宿るどころか、

我々自身が神

なんです。

 

それを、とても端的に、

分かりやすく表している言葉だなと感じていました。

 

 

それなのに。

 

神である自分自身に対して

「ま、いっか。」

で済ませてきたことの多いことといったら…。

 

自分(=神)を蔑ろにし、

自分(=神)を疑い、

自分(=神)の魂よりも他の物を上に置き、

 

なんという不届き者だったのでしょうか笑

 

 

それに気づいてからは、

自分(=神)を大切にし、

自分(=神)を信じ、

自分(=神)の魂を何よりも一番上に置き、

 

魂が何を望んでいるのかに耳を澄ませ、

その声を受け取ったなら

そのとおりに行動する。

 

それを心掛けています。

 

そして、人間はすぐに忘れる生き物なので、

今も日々リマインドしています。

 

 

神が細部に宿る空間で、匠の技に浸る90分。

皆さんも機会があればぜひ♪