手首や腕を切る時、それは私の場合衝動だった。

自分でも信じられないくらいの、どうにもならないくらいの悔しさや寂しさがあった。

生きると死ぬ、そのことを綱渡りの上でぐらぐら歩く時、ここにはもう、なにもないんじゃないかって、もうからっぽでなくなったんじゃないかって、地底からマグマがわいて出てくるみたいに、わなわなと震えてその気持ちがはみ出してしまうのだ。

気がつくと、それはからっぽに思えても、何もないわけじゃないのがわかる。
マグマが出てくる。
赤は美しいと思う。痛いのに安心する。
私はからっぽじゃない。
ちゃんと中身はあるのだと。

あるのにないように思う。
この衝動はなんなのか。抑えきれなくなるたびに、確認したくなったのだ。

自分の中身は生きている。自分の中身は生きている。まだ生きている。生きようとしている。
この綱渡りは危うい。
危ういことがちょうど良かった。
危ういからこそほっとできた。

私の心はまだあるらしい。体は生きようと反応する。その不思議を目の前で感じた。

生きる意味がわからない。何故ここに、こんな思いでいるのだろうと思った時、それが抑えられなくて、私は傷をつくった。

かさぶたが痒かった。かさぶたはみっともなくて、早く剥がしたかった。
これが剥がれても、きれいにならないと知っていた。
それでもその時は来る。
自分で自分を止められない。止められるほど器用でない。止められるほど軽くない。
地中からマグマがグラグラ揺れて、出たい出たいと言う。
生きたい生きたいと言う。
そのたびに私の傷は増えた。

そんなことで救われないのは知っていた。
だけど止まらない。これは止まらない衝動だ。中身が見えないからだ。確認できないのだ。

ここに体はあるのに、心がなくなる気がする。今生きているのに、死んでいる気がする。
息をしているのに、吸えていない気がする。
苦しくないのに、苦しい気がする。

そういう不安定さ、そこで綱渡りするのは、やじろべえの私だ。もう今にも落ちそうなくらいぐらぐらするのだ。

落ちたらどうなるのだろうと思うけれど、完全に落ちないように、どこか縄で縛ってあるのだ。
もしかしたらそれが、見えないへその緒なのかもしれない。

この衝動を考えてみると、それはどこか後ろめたい性衝動に似ていると思った。

求めてはいけないのではないかと思う気持ち。何か悪いことをしているような、いないはずの誰かがこちらを見ているような、そんな気持ちになるのだ。

自分に「生きている?」と聞くと、「生きている」、「生きる」と返ってくる。

これは自分との問答だ。

この不安定さは、水の玉を水の中にぽちゃんと勢い良く落とした時、その瞬間にパシャッと小さな水の塊がぶつかった衝撃の反動で空中に飛び出し浮いてくる、あの感覚だ。

あの瞬間のまま時が止まっている。

その水が、小さな水滴が、元の水に戻れずに浮いている。
決して交われない、戻れない、あの浮いた水の塊こそが止まっている自分だ。

自分は動いているのに止まっているのだ。
止まっているのに、心だけが遠くに飛んでいく。その速さについていけない。体は動かない、追いかけることもできない。

もうこの体とは繋がっていないのではないか、ここにあるのはただのぬけ殻で、あったって意味がないんじゃないか、遠くに行ってしまったならば痛くも痒くもないんじゃないか、ここになくてもいいんじゃないか、見失ってしまったんだ、自分は本当に自分なのか、私は私なのか、見えないからわからないのだ。

確かめたいのだ。これは問答だ。

こたえてくれるのが、血だった。
あの時の私には血だった。
ちゃんと返事をくれた。確かな返事だった。

私は自分に話しかける。
お前相当不器用だったねと。

そして今大人になって思うのは、人は手首を切らなくても、大なり小なり何か問答し、求め、「生」を確認していると。

仕事、買い物、金への執着、人への支配、食べて満たす、運動、研究、勉強、恋愛、権力への渇望、見栄、動物への愛、ゲームに浸る、日常を共有するSNSの世界、インターネットへの依存、見かけへの拘り。

そんな、一見当たり前の日常の中で、誰しも何かに生を確認しながら生きている。
そこに手ごたえを求めて問答している。

やってもやっても満たされない、まだまだ足りないと思う、それと似ている。

ほとんどの人は手首を切らない。確かに馬鹿げている。自分でもそう思う。
だけど、やり方が違うだけで皆それぞれ、自分ってちゃんと「生きている?」を問答しているように感じるのだ。

その問答が、私はあの時自傷だったんだなと、そんな風に思うのだ。

今はそれがもしかしたら、書くことなのかもしれない。