トップデザインの変更がわからず、シンプルなまんまだな、、、。
まぁしばらくはいいか。
とりあえず、母と私のことを。
母はずっと個人事業主としてものすごく忙しい日々を送っていました。
私は、それをサポートする立場で、母は私にとって雇用主でもありました。
一緒に働き始めてからは、どちらかというと、母というより雇用主というのが強かったかな。
元々、仕事は手伝う気はなかったけれど、大学を卒業するにあたり、まずはフリーターで、と思っていた私に、母が、人が足りないから手伝って、という軽い言葉から、あれよあれよという間に。。。20年足らず。
結局、亡くなるまでサポートし続けました。
まぁ昔から、本当に母は外では強いけれど、私にはとても弱い面を見せる人で。
寝れないから一緒に寝て、と、声をかけるのもなぜか末っ子の私に。
(父は昭和な人で、飲み歩き女遊びもし帰りも遅かったので)
私が元々幼いころ誰かいないとだめで、めちゃくちゃ甘えただったので、この子なら甘えやすいかも、と思ったのかもしれません。
姉や兄はそこまで甘えたではなかったから、甘えにくかったのかも、母も。
なので、私と兄姉とでは、母のとらえ方は少し異なります。
私にとっては、幼い子供のような一面を持った人でした。
昔はひたすら母の私生活での不安定さの煽りを受け、私も不安定な人格で摂食障害までになってしまいましたが、母と仕事をするうちに、それも変化していきます。
仕事の中で、母ではなく一個人として捉えることが出来たのが大きかったのかな。
一緒にいる中で、衝突することも多く、たくさんケンカもしました。
仕事を辞めたい、外へ出させてくれ、とぶつかったことも何度もあります。
けれど、そのたびに母はなんだかんだうまく丸めこむんですよね、私を。
そういうのは職務上でもうまく使っていて、なんだか人を丸め込むのが上手な人でした。
私は結局母にとって使い勝手がいいので、そばに置いておきたかったのかな、と思います。
まぁ晩年は仕事を縮小していく中で揺らぎが出てくるんですけれど。
言ってしまえば、母は毒親としての一面も持っていたかと思います。
けれど、元をたどれば、母の母の母、曾祖母が早くに亡くなったことが発端だったのかな、って気付いてからは、そんな母のことを受け容れるようにもなり、負の連鎖を断ち切らねば、とも思いました。
まぁ晩年の不安からくる我儘に、こちらもイライラが募り、つい過去の恨み辛みというかな、そういうのをぶつけてしまったことも何度もあります。
本当にね、介護というか、病の人と向き合うことはとても大変だと思います。
周りは、倒れんように気を付けて、とか、あなたの身体を大事にね、とか言うんですけれどね。だからと言って、かわりに母のそばにいてくれることもないんで、まぁ聞き流してましたけれど、本当に。
結局は、倒れるまでやってやる、って思ってました。倒れたら後は知らん、って。
けれど、しんどい時はやはり、ならもっと手伝ってよ!って内心思ったりもして、そんな自分が余計にしんどかったです。
だから、今、もし介護でいっぱいいっぱいな人がいても、私はどう声をかけていいかわからないです。正直。
できるだけのヘルプを行政から受けていても、足らないことはたくさん、しんどいこともたくさんある。
もうデスマッチ、倒れるまでやるしかない、その勢いでしかできなかったです。
母亡きあと、義母と話していた時に、義母が言ってました、
もうこちらが限界!と思ったときに逝っちゃうのよね、って。
母もまさにそうでした。
やるしかない!倒れるまで!
正直、そう思ってないとできないです。
周りの、身体を大事にね、とか無理なんです。
ね。
本当に、難しいな、って思いました。
まぁ、母が、なんせ寂しがりやで、自分の思い通りにならないことが嫌な人だったので、それも大変な要因だったのかな。
もし、自分の責任感で無理を背負ってる方だったら、他サービスをどんどん頼りましょう!って言えますね。
まぁ私の場合は母の希望だったので。
最後は結局、母の希望通り在宅でみんなで看取れたので、倒れるまでやってやる!って思ってよかったな、後悔がないな、って思ってます。