4月に亡くなった母のことを回顧録として少しづつ綴って行きます

 

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主治医からの

「肝臓やその他の数値も今すぐどうこうというほどには悪くはありませんが

急変ということもあり得ます」

 

という説明を受けたものの、私達には日々ただ母の傍らにいることくらいしか出来ることはありませんでした。

 

母はほとんど眠りながらも、こちらの声掛けに目を開け少しやり取りをすることもありました。

 

 

それから数日経った4月9日、お昼前に兄と病室へ行くと

午前中から熱が39度まで上がっている、と。

母は眠った状態でしたが呼吸が早くなり苦しそうでした。

 

熱は少し下がりつつも、夕方血圧が取れない状態になり

酸素チューブを付け、モニターが置かれました。

 

 

酸素濃度が70まで下がり、今夜がヤマになるかもしれないと。

翌日が父の命日。

お母さん、同じ日を選んだの?

お父さん迎えに来てるの?

 

私は傍らのソファベッドで横になりながら

ただただ母を見守り続けました。

 

 

明け方頃から少しづつ血圧と酸素濃度が上昇し始め

朝には熱も37度に落ち着き呼吸も安定し始めました。

 

翌日は兄が泊まり、その夜にはすべての数値が安定しました。

 

 

主治医の説明では、抗生物質が効いたので、おそらく感染症の熱とのこと。

一先ず安心しました。

口から水分を取っていないので乾燥し痰がすぐ溜まります。

3週間余り点滴だけなので体力も落ちています。

健康体なら何でもないことが命に関わることを改めて実感しました。

 

 

急変の原因が本来の病気ではなかったことと、容態が安定し落ち着いたことで

私は今のうちに一度自宅へ戻って、一週間ほど色々と準備をし

また母の元へ帰ってこようと決めました。

 

 

・・・・・・・

続きます。

スローペースですが<(_ _)>

 

 

 

 

 

4月に亡くなった母のことを少しづつ綴ります。

 

82歳を今年1月に迎えたばかりで

誕生日にはケーキでお祝いし

「今年も元気で頑張ります!」と、笑顔のメッセージ動画も。

 

極端な不調を訴えていたわけでは無かった母が

3月中旬辺りから食事や水を欲しがらなくなり

3月20日に入院と検査、そして4月3日に転院と精密検査。

4月4日に余命2ヶ月~3ヶ月の宣告を受けました。

 

 

末期の胆のうがんでした。

接している肝臓にも一部転移があり

その影響で片方の肺に少し水が溜まっていました。

 

主治医から様々な説明を受けたあとは

兄弟とも話し合い、同じ病院の緩和ケア病床へ入院することに。

 

これからの2ヶ月ないし3ヶ月をどのように過ごして行こうか

私は自宅と実家がかなり離れているため、仕事のスケジュールや家庭のことなど

どのようにして行こうか。。。。

と、母との時間が区切られてしまったショックの中

そんなことを一生懸命考えていました。

 

今思えば、かなり気が張っていたと思います。

 

母のために、私がしっかりしなくては!

と、そんな思いでいっぱいでした。 

 

 

幸いしたのは、母は入院前から、少しフワ~っとしたような状態で

受け答えはするものの、辛さや痛みを訴えることなく

ほとんど眠っているような様子だったり

例えばMRIから戻ってきたときには

「大丈夫だった?うるさくなかった?」

と聞くと

「最初は(ヘッドフォンの)クラシックが良かったけど途中からガンガンうるさくて死ぬかと思った!!」

 

思わず笑えました。

MRI検査は高齢になると難しいかなと思っていましたが

それは私の要らぬ心配で、もっと早いうちに一度検査をしてあげれば良かった、、と

この時はそんな後悔の念も抱きました。

 

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続きます。

スローペースですが<(_ _)>

 

 

 


4月15日に最愛の母が天寿を全うしました。

6月初旬に四十九日法要も終えましたが
日々母を想うとまだまだ寂しさや様々な感情で胸が苦しくなります。

お母さん という存在が亡くなってしまう、、
という事自体が信じられない

昇華しきれないそんな気持ちを
少しずつ書いて行こうと思います。


また2017年の11月から始まった母の病気や
介護生活の回顧録も書き留めておきたいと思っています。