この前
より続きます。


私が大失敗をした運動会に、

唯一来てくれていたおじいちゃん。

本部テントの中でどんなパニックが起きているかまではわからないので、
この運動会がもんなに私にとって辛かったかは知らなかった事でしょう。



それから私は、とても傷つき、暗く、荒れていたと思います。

カメラが好きだったおじいちゃんが、
運動会で走る私の姿を撮ってくれていて、
現像が上がってきました。


が…
全部違う人😰😭😵

運動会で怒りや悲しみを溜めに溜めていた私は、


おじいちゃんに、
バーーッと吐き出しました。

何を言ったかわからないけど、とにかく酷いこと言いました。


役立たず!系かな。

おじいちゃん大好き、比較的穏やかでおじいちゃんっ子な孫が突如、怒り出したからびっくりだったと思います。


そしたら、いつも優しい父が、
『そげなん事を言ったらいかん!』
と言い、
ピシャッと止められ、
私も、ハッと我に返ったのですが、

大好きなおじいちゃんの顔は
曇り、
うつむいていました。


その時の悲しそうな顔を思い出すと、今でも涙が出ます😭


あぁ、また、人を傷つけてしまった。

私は酷い人。


だけど、自分も辛過ぎて、
大好きで大好きで両親代わりのように大切に育ててくれた おじいちゃんを
労わる事は出来ませんでした。


まだまだ溜まっている怒りや、悲しさにスッキリせず、
ムスッとして、フンっとしていたと思います。


心の中は泣いていました。

やっぱり私はダメなんだって。


自分もグッサリ傷ついていたので、

目の前の人の痛みに鈍感にもなっていたかも知れません。


大切に大切に育ててくれたおじいちゃん。。。


それから、ほどなく、
おじいちゃんの転院の話が出ていました。

他の病院に入院しているおばあちゃんの所へ転院して、

同部屋で二人並んで入院する流れになっていました。


そんなある日、

おじいちゃんは死んじゃったのです。

その数日前に、

話があるからお座敷に来て、とおじいちゃんに言われましたが、

私はいじめと部活のきつさとでソファーから起き上がれず、行きませんでした。


あの時、何を言いたかったんだろう。
あの時、あの時…。


コーヒーが冷めないうちにの映画を思い出します。


おじいちゃんは結核で、若い時からずっと寝たきりで、
戦争に行けなかったのです。

周りの人は戦死したり、満州から必死で帰ってきたりしました。


『戦争には行ってないのに、子供は生まれる。』と揶揄された事もあるようです。


遺族年金などもなく、同じ戦時中の苦しみを味わいながらも、大変な老後を過ごしていたのです。


幸い、私の父、おじいちゃんの息子が安定していたので、生活に困る事などはありませんでした。


だけど、戦争に行ってなくても、人はこんなに苦しいんだ。

自分を責めるんだ、と思いました。


ただ、急に思い出して、書きたくなったことです。


おじいちゃん、自分を責めんでいいよ。

おじいちゃん、大好きやけんね。

ごめんね。
ごめんね、
ごめんねーー!!


幸せに生きるけんね。