当家にあった墓石の中で、最も古いと思われる墓石がコレ。



 光=日照の関係で文字がほとんど判読不能。このときは、写真だけでなく、目視でも判読は極めて困難な状態でした。こういう時は、光の角度が変わるのを待つとともに、墓石に水をかけることで、表面の凹凸が読みとりやすくなるのを待ちます。

 待った結果がコチラ。



 だいぶ文字が浮き出てきました。夫婦墓のようですが、表面の経年変化が激しく、一部読み取り困難です。特に、向かって右側の法号の二文字目にあたる部分の損傷が激しい。疑問なのが、院号が5文字あるようにみえること。普通は〇〇院と3文字だと思うのですが、左右とも5文字。何ぞ?

 墓石の右縁に命日が「元禄十三年・・・」と刻まれています。元禄13年は、西暦1700年。忠臣蔵・松の廊下事件の前年になります。前記事に登場した栃木県茂木町牧野から当地へ移住してきたご先祖さまより、さらに古い方のお墓のようです。「このお二方は誰なのか?」と悩むことしばし。

 墓石の下の方。



 道・妙号、日号が読みとれます。向かって右側の最後の文字は、実の旧字「實」の貝の部分が摩耗した、と見てよさそうです。左右両法号の下に刻まれた〝ヨの下に心〟は、ネット情報によると「霊の異体字では?」とのこと。

 道・妙号、日号を仔細にみているとき、「ハっ!」とリンクしました。前記事の墓石に刻まれた「由緒書き」にあった、ご先祖さまの両親の法号と符合する!?

 由緒書きにあるご先祖さまの父の法号が「即中院道全日實」、母の法号が「了智院妙負日性」です。母の法号の最後の文字が、こちらの墓石では「證」、由緒書きでは「性」で異なっているものの、音読みすると全く一緒。

 「なるほど、ご両親のお墓を当地で建てたのか!」と得心しました。由緒書きを読んだときは、「なんで両親の法号まで長ったらしく書いたかね~」と批判的なまなざしでした。でも、ご先祖さま、グッジョブ!!

 院号が5文字あるように見えたのも、ググって解決。父母の法号の上にそれぞれ慈父、悲母の2文字を刻んだのですね。慈父の「父」の部分は、ほぼ判読不能でしたので、疑問が氷解してスッキリです。

 父親の命日は、



元禄13年2月5日。

 母親の命日は、





享保2年11月(12月?)21日、のようです。

 300年以上の時を超えた、18代前のご先祖さまとの邂逅でした。