~波乱万丈!?前世はネコの自叙伝ブログ~

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みんなに普通じゃないと言われる、26歳の波乱万丈?人生を綴ったブログです☆

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私のママが離婚して、

ママが成人を迎えてまもなく、ママの母親は亡くなりました。47歳でした。


私が、3才になったばかりのころです。

ママの父親は、私が産まれる前にすでに他界しているので、私は全く知りません。


話が少々ややこしくなりますが、

私の家計は私が早くに産まれたため、親族皆、年齢が若く、


私は、母のことを「ママ」

47歳で亡くなったおばあちゃんのことを「お母さん」

先月、95歳で亡くなったひぃおばあちゃんのことを「おばあちゃん」

ママの兄、伯父のことを「おにい」

ママの姉、伯母のことを「おねぇ」


というように、ひとつ呼び名を繰り下げて呼んでいました。

なので、話がややこしくなりますが、以下からは上記の呼び名で記します。(ノ_-。)


お母さんの死因は”医療ミス”だったそうです。

子宮がんを患っていたお母さんは、1度は全部摘出し、退院したそうです。


ですが、当時は子宮がんがとても珍しい病気だったと聞いています。


退院後、入院していた都内のI大学病院から、


「再発防止の抗生物質を投与しときませんか?」


と連絡があり、お母さんは頑なに再入院を拒否し続けました。


しかし、がんというもの、いつ再発するかわからないし、今後のために受けといたら・・・??


と、家族の勧めもあってしぶしぶ再入院。


退院してから1週間後の出来事でした。


抗生物質投与から3日後。


病院から「昏睡状態の危篤の電話」。


明らかにおかしすぎます。 お母さんは抗生物質が効くかどうかの実験台にされたのです。


意識は回復しないまま帰らぬ人となりました・・・


家族・親族はI大学病院に猛抗議。


病院側の釈明は無かったそうです。


裁判も考えたそうですが、どんなに抗議したって、賠償金もらったって、なくなった命は戻ってきません。


私たちの家族は「医療費は1円たりとも払わないからな!」と病院側に言い、


ずっと払わずにいても病院からは何も音沙汰は無かったそうです。


これは間違いなく病院側は自らの非を認めていたんだろうと、私のママは言っていました。



私は今でも覚えています。

当時3才の私は、小さいながら涙は出なかったものの、棺に入ったおかあさんの姿・・・


今から釜に入れるという前の、棺に入れるお別れの花。

ママに抱っこされ、「おかあさんバイバイね。」と促されながら、訳もわからずお花を棺に入れた記憶・・・


釘打ちの儀・・・


大人になるにつれ、あれは葬儀だったんだとわかるようになりました。


大人になってから、おかあさんの死因を知り、悔しくて涙が止まりません。


おかあさんは、もちろん初孫ということもあり、私のことをとても可愛がってくれました。


離婚してからというものの、ママは


「片親だから・・・」


という偏見を、世間から絶対に見られたくないと、

私を常識のある子供に育てようといない父親の分までとてもとても厳しく育てられました。

それは、今であったら虐待並に厳しかったですよ(笑)


でも、昔の雷親父みたいなものですので当時は当たり前っちゃ当たり前でしたけど。


しょっちゅうママに怒鳴られる私に対して、

お母さんはいつも私をかばってくれました。


頭を殴られ泣きわめく私。


「もういいじゃない純子~」


嘘泣きして、お母さんのひざにうずくまる私に、


「あまやかさないでよ!どうせ嘘泣きなんだから!」


と蹴散らすママ。


こんな記憶も残ってます。


お母さんは、聡明な頭の切れるすごく仕事が出来るお母さんでした。


高校を中退し、私を産んだママに、

自分が面倒見てるからと、改めて学校にママを通わせました。


ママはその2年間で、調理師専門学校を卒業し、調理師免許を持ち、

19歳で大手ホテル系列のレストランの厨房で働き始めることが出来ました。


今でも調理師は続けていて、料理に関してはホントにプロですね。

ママもお母さんにはとても感謝しているそう。


働きづめで忙しいママの変わりに、

お母さんは遠足に付き添いに来てくれたり、

保育園に迎えに来てくれたり・・・ 本当に可愛がってくれました。


またこれは、先月おばあちゃん(ひぃばあちゃん)の葬儀があった際、親戚から聞いたことです。


「あなたのおばあちゃん(私が言うお母さん)はねぇ、入院してる間も、死に際までずーっとあなたのことを気にかけていたんだよ。自分の娘たち(ママたち)は心配ないけど、3才のあなたのことをとても心配していてねぇ、ママの戸籍からあなたのことを抜いて、自分の子供として育てることまで考えていたのよ。」


って。


正直な感想、どんだけいい人なの!?って思いました。


自分の娘は10代で私を産んだから、

まだまだこれからって時に子育てをしなくちゃならないのは、娘の人生、可能性の足かせになるからと、

私を養子として、自分の子供として育てれば、娘も自分の人生を全うできると考えていたのかと!


衝撃でしたね。


ただ一つ言えることは、

お母さんの子供として、なんの不自由もなく、甘やかされて育っていたら。


今の私はいないだろうと思ってます。


だからこれは必然なのだと。自分の人生に課せられた宿命だったんだと思ってます。

そりゃ、習い事とかやりたいことやらせてもらえなかったことは、今でもとっても悔やんでます。

もっと早くダンスレッスンしてれば今頃・・・とか。

でもそれも結局甘えに過ぎませんからね。


今、夢を諦めざるを得ない状況になるまでに、自分がやりきれなかっただけの結果だと、受け入れています。

お母さんが亡くなって23年。 当時私しかいなかった孫は6人に増えました。 おばあちゃんと天国で23年ぶりの再会でお母さんも喜んでるだろうなぁ。。。
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私を産んでからほど2年。


わたしの両親は、「離婚」という結論に達しました。



おそらく、

若かったし、

突然の妊娠。

お互い遊び盛りで、

仕事も安定しているわけではなかったでしょう。


さらには二人とも頭に血が昇りやすい性格で、

ケンカも絶えず、


さらに父親は、
ママだけでなく、
2才の私、さらにはママのお母さんにまで、殴りかかろうとしたらしいです。



だから、これはもうダメだと。

離婚を決意したそうです。

離婚の原因は暴力だとママからは聞いていました。
一方的にママの話だけを聞いていた幼い私は憎しみを覚えましたが、


大人になった今は、
お互いに原因があると思っているし、憎んだりはしてません。

うちのママは、
男に寄り添い尽くしたりする性格じゃないし、

口より先に手がでる性格ですから、
きっとケンカは殴りあいだったことでしょう(笑)



20年以上たった今、
父親に会う機会があり、

昔話をたくさん聞きましたが、
父親いわく、
当時は、ママのことが好きすぎたあまりそういう行動に至ってしまったのですって。


まぁ、自慢ではないですが、
私のママはモテると思います(笑)



離婚、
今では珍しくなくなりましたね。


よくあることです。


けれど、
子供と親の立場、

両方を理解出来るようになった今は、


子供を思えば、
両親には最後まで責任を持って育てていって欲しいです。


家に帰っても、起きても誰もいない生活、授業参観に誰も来てくれない寂しさは、
大人になっても鮮明に覚えています。


そして、
愛する人と、一度でも一緒になろうとして決めたことなら、

お互いのエゴで、

簡単に離婚に至らないでほしいと思います。



違う両親、違うしつけ、違う環境で育ってきた、

全く違う性格同士。


結婚する始めから、
合うはずがないことぐらいわかるはずです。


結婚すると決めた以上は、
いいも悪いも受け入れて、

互いに理解を深め、
許しあい、譲り合いしながら生活していくのが普通だと思うから、


子供がいたらなおさら、
子供のことを考えていって欲しいですね。しょぼん


最近の若夫婦は、

「忍耐」を知ってほしいです。

結婚とは、
耐え忍び、
うまくいかない、納得のいかないことだらけの中の小さな幸せをたまに感じ、寄り添い、
共に親として成長していくものなんじゃないかなぁと思いますね。

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私が命をこの世に授かったのは、




ママが16才の時。




暴走族の頭をやっていた中学の同級生が、私の本当のパパでした。








ママは3人兄弟の末っ子。




ママのお父さんが鉄工所をやっていたので、ママたちは当時ではそれなりに裕福な家庭に育ちました。






長女は、中学卒業後、私立の美術の学校へ。とても美術センスがよく、賞も取っていました。


家柄のいいお金持ちの彼氏と出会い、彼の影響でサーフィンにはまり、


その彼と結婚し、二人でオーストラリアにサーフィン留学の経験あり。


今は、ハワイ直輸入の‘ヴェラブラッドリー’バッグ店を茅ヶ崎で営み、一人娘は乗馬が趣味・語学も堪能で現在鎌倉の国立中学に通ってます。


センスがとても良いので、茅ヶ崎のお家は英国スタイルの配色や家具でとても上品。まさにお嬢様育ち奈感じ。






長男は、とても頭脳明晰で、成績もよく、初めはギタリストを夢見てNYに行ったが、挫折を味わい、


帰国後10年掛けて猛勉強し、英語を完璧にマスターし、国際公認会計士試験に合格。


NYで、国際公認会計士の仕事でマネージャーを務める。 朝日新聞に取り上げられた経験もあるんですアップ


初婚は私が小学生の時ハワイで挙式をするも、1年ほどで離婚。


その後は自由が丘出身の家柄の良いお嬢様と、付き合って3ヶ月で授かり婚。


2人の子供と3年くらいNYで生活していた。もちろん子供たちは英語はお手の物でペラペラヾ(@°▽°@)ノ。 


が、リーマンショックと共に経済が不安定に。日本に帰国後も公認会計士を続けています。


授かり婚にしては家庭は円満ですね音譜




次女。


これが私のママ。


ママのお母さんは、私のままに相当賭けていたらしい。。。




だって、1週間全部習い事させられていたんですってヾ(@°▽°@)ノ


昭和40年代ですよ? やはり相当お金を持っていたのでしょうねw


習字・そろばん・モダンバレエ・ピアノ・水泳・塾などなど・・・


凄まじいですねΣ(・ω・ノ)ノ!


今の時代でもこんな習い事三昧な家こそ少ないでしょうねw




中でも続いたのが


モダンバレエだったそうで、将来の夢はバレリーナだったんですって。


今では、バレエをやっていたなんて想像出来ないですけど・・・w




中学生のときに、本気で取り組んでいたバレエが怪我で2度と出来なくなって、


私のママは、目標を失い、一気にワルの世界へと行ってしまったんですって汗




中学2年の時のアルバムを見ると、




聖子ちゃんパーマで、スカートはロング。


ヤンキー座りでタバコを吸ってる写真がありました(ノ´▽`)ノ




バレエの写真と見比べるとホント信じられませんね笑




その時付き合ってたのが、私の実のパパ。




1度別れたけど、高校生のとき、


家出したママは、職人の修行で行っていた秩父まで押しかけたそう。(私の実家は川口市)


そこでの出来事で私が出来たみたいです(´∀`)w




16才ですから。




もちろんママのお母さんは猛反対ショック!




私を下ろすことも考えたそう。 あたりまえですよねw




けれど子供を下ろしたら、もう2度と子供が出来なくなるんじゃないかって思い、




産むことを決意したんですって。




一時期、「私なんて生まれなきゃ良かった!」って思ってた時期もありましたが、




結果的には、今ココでこうしていて良かったです笑




母16才の9月6日。




午前2時。


誰もいないくらい病院の中、わたしは産まれました。




私が産まれた瞬間。


当の父親は、




集会(族の集まり)に出ていたそう・・・( ̄ー ̄)




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