未来がたくさんあった若者の頃は、あまりなんだかんだといっても

人生の意味について考えるより、目先の目標とすべきことをやっていた。

 

年老いてくると、そして目先の目標がなくなり、また成し遂げられることの小ささを知り、特に何かに向かって走ることができなくなって初めて、何のために生きるのかという問いが浮かび上がってきた。

 

周囲の人たちを見ていると、皆決して人生楽しいわけじゃない。むしろ仏陀の言ったように”苦”を生きているように見える。

その中で、美味しいものを食べる、欲しいものを手に入れる、親戚や友人が集って話す、好奇心を満たす。

楽しいことと言ってもこれくらいのことで、人生の大半は苦である。

みなさんよく生き続けるものだなと思う。

そんなに苦しんで生きなくてもと思う。

 

しかし、多くの人は、もちろん私も含めて、しんどいのに、それでも生きようとする。そして自分の生を充実させようと努力する。

遺伝子だけでは片づけられない不思議な現象だ。

 

皆、それほど大した至福の時はないように見えるにもかかわらず、生きづづける。

 

今後、この謎に迫っていくことにする。

ママがTVで見ていたドラマでキスシーンがあった時、ぽこもそれを見ていた。

「キスシーン見られるようになったんや!」とママ。

「ちがうねん!気持ち悪いと思うけど見てしまうんよ。ママも甘いものダメと思っていても食べるでしょ!」

 

やはり興味があるらしい(笑)

 

ぽこは、学校で男の子が混じって遊ぶのはいやだといい、

女の子と男の子と2グループから誘われたら、絶対女子と遊ぶという。

 

そのかたくなさにも、男子への興味が大きくなってきていることがわかる。

 

思春期だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今は、余生だと思うことにしたい。

 

そうすれば、なんでも「やっちゃえ!」と

少しは積極的になれるかもしれない。

 

思えば未熟な人生だった。

自信などいっこうにつくことはなかった。

ある程度は変わってきたものの

「そう生まれついたから。。。」

とでも思わないと受け入れられない自分である。

 

人生の目標や意味もついぞ見出せなかった。

もちろん一日一日にはそれなりのドラマがある

それはそれで悪くない。

 

ただ、人生全体を振り返って

自分のしてきたことを見ると

それは何とも貧弱で

人間自体も小さくで

情けなくなる

 

もうほぼ人生は終わったので、これからは余生を生きるつもりでおれたらいいかな。

朝、学校に行く前に「プリキュア」を見ているぽこ。

 

私は食器を洗っている。

 

ぽこは、こちらを見て「プリキュア見るなんて幼稚よな~。

でも最近、何かみたいねん」

「どこがおもしろいん?」

「悪者が出てきて、やっつけるところ」

 

ぽこの学校の人間関係は複雑なんだろうな、

 

と私は思った。

 

プリキュアで少しでも解消するなら、どんどん見てくれたまえ。

 

 

 

朝、学校にいく前に、朝ご飯を食べながら、ぽこがぽつりという。

「最近、あかりとちょっと。。。」

 

あかりは1年生からの同級生で、担任の先生からも、「ぽこちゃんはあかりちゃんといるときは、けんかもなくいつも楽しそうにしている」といわれたぽこにとっての親友。いつも安定していてしっかりものの優等生。あかりちゃんは、いつも気持ちが安定しているので、ぽこも安心して付き合えるのだろうと私は思っている。

 

「うまく、いってないの?」

「ううん、あかりは、可愛いし、勉強もできるし、絵もうまいやろ。男の子の人気もあるねん。だから、二人でいると、ぽこがちょっと低いというか。しっとしてるねん。他の子といるときはいいんやけど。。。」

「そうか。。。」

 

親友なのに、嫉妬を感じて、苦しんでいるぽこ。

複雑な心模様である。

私が劣等感の強い人間なので、ぽこがそうならないように祈る気持ちである。

 

加えて、ぽこはいう。

「あかりは、誰に対してもやさしいねん。だから、他の子やったら、違う子の悪口言い合ったりするけど、あかりとはそういう話できへんねん」

 

一番仲がいいと思っていたが、最近、あかりはクラスも別になり、他の子と遊びに行くようになってきて、ぽこはきっとさびしいと感じていると思う。誰にでも優しいのではなく、自分にやさしいあかりを、他の子の悪口を言い合ってあかりとの親密感を深めたい気持ちもあるのだろう。しかし、あかりは優等生でそういう形で距離が縮められないし、あかりのそういうできすぎた人格に自分の劣等を感じていたりもするかもしれない。

 

これからどうなっていくのだろうか?

 

 

5年生になってから、担任の先生が毎日日記を書かせる。

ぽこの書いた日記の中で私がうれしかった一文。

 

 

「じゅくの帰りの一言」

今日、じゅくの帰りにつかれきった顔で私はむかえにきた車にのりました、そしたらパパが「よくがんばったね。」といってくれました。その一言で私はつかれきった顔が元気いっぱいの顔になるように気持ちがやわらげました。なぜだかわからないけれど、とってもうれしかったです。

 

 

いつも声掛けが悪く、ぽこを不機嫌にしてばかりの私だが、この作文の時は、私の言葉がぽこの気持ちにフィットしたのだろう。

うれしい限りである。

今日は休暇だったので、学校帰りのぽこと、ぽこがバレエに行くまでの間、一緒にいた。

私が何かを動かすのにかがんでいたら、

「それをもう一回やって」といい、その通りかがんでいると

背中に乗っかってきた。

「右にいって!」 と完全にお馬さんごっこ。

ベッドのある部屋で、ベッドの上で振り落したり、逃げ回ったりすると、ゲラゲラ笑って大喜び。

 

小5ではあるが、突然幼稚園のような遊びを好むのでびっくりする。物言いはずいぶん大人になってきたのに、子どもの部分もたくさん残っている。

 

一方、人前に出ると結構気を使っているし、最近は旅行や買い物の帰りに荷物を持ってくれるようになった。今まで、荷物など見向きもせず運んでもらっていたのに、ずいぶん変わった。

 

今晩は一緒にお風呂に入って先に私が出たのだが、後で

「お湯抜いとこか?」といったのは驚きだった。

今までにない発言だった。

 

こうして成長とまだまだ子どもの部分を日替わり時間替わりで見せてくれる。

そんなぽこを見ていると、私も楽しくなっていくる。

始発に乗り東京に出張。荷物を持って来すぎたのではないか?カバンが格好わるいのでは?もう少し軽くすれば良かった!などと後悔で気持が一杯になる。肛門期固着、強迫性格の悲しさよ。
あまり気にせず出張と人生を楽しみたいものである。

それにしても産業医の先生たちの体育会系なエネルギッシュさには驚きである。出張すれば飲み会や遊び、学会に行くときは前泊で飲み会などとにかく飲むのが好きである。マラソンしている人もいてパワフルな人が多い。これは産業医の特徴なのだろうか?

 

東京にくると、乱立するビル群に圧倒される。人間がこのようなものを作ったことに驚きだが、一方でこのような極めて人工的な世界で生きることの不自然さ、都会の高揚を得る一方で心が自然界とやりとりする世界が大幅に失われてしまったことについては人間の大きな損失であるように思う。

一人で会場からホテルへいく。京急線がわからなくて迷った。ホテルで一人でいるときとか、特に起きて一人で出る時間を決めて出ていくときに、心細さが大きくなる。外の世界がこわいというか、そこに出ていく自分がこれでいいのかと心細いのである。


朝も新橋駅までいくはずが、品川駅で降りてゆりかもめの乘り口を探していた。全く血迷っている。慣れない場所では人も冷たく見える。。。
少し落ち着いて辺りを見回すと好奇心が出てきた。初めてみるビル、朝の東京、人の表情。。そうすると、怖さが薄らいでいくのがわかる。そうか、人が世界に出ていくのは、好奇心があるからなのだ。
幼児がもつ好奇心を大切に育てなくてはならぬことを実感した。

特に初めての駅の改札を通ったあとに、混乱して方向がわからなくなることがある。今朝も品川駅で同じ状態になった。自分が周りから引き離されて見当識を失ってしまうのだ。
家族で人ごみの中を歩いているときも、一瞬そんな感覚に襲われて家族を見失ってしまうことがよくある。


ひょっとしたら、心の中の見捨てられ不安体験をフラッシュバックのように再現しているのかもしれない。


不安を喚起する点で一人旅はいろいろ勉強になる。
 

もう少し一人旅を楽しめるようになりたいものだ。

 

 

外食した鉄板焼きの「お肉がいまいち」だったねと妻が言う。

私も続けて「ほたても新鮮じゃなかったしな」と言う。

 

すると、ぽこは怒って「パパそんなんいわんといて!ママが選んでくれた店やのに!」と言う。

ママのいうことに、パパがケチをつけたので、ママが傷つくと思って、私に怒るのである。

 

父はよく夕方の家族の食卓や外食先で、「しょうゆが薄い」「味が濃すぎる」など文句をいった。

今の私はわかるのだが、父はある程度、味に敏感なので感想をいっただけのつもりだったろう。

 

しかし、私はそんな父をとても憎んだ。

父の料理の評価に、母親は傷ついているし、

第一、楽しい食卓が父の言動で暗い雰囲気に変わってしまい

台無しになるのである。

「なんで、ケチをつけるのか!」

私は父に怒っていた。

 

今、人の親になり、ぽこに同じようなこと指摘されていると知る。

父の反面教師が学べていない。

未熟な私である。

 

10歳にして、その怒りを声に出していってくれるぽこに感謝して、

自分の言動を控えねばなるまい。

 

 

 

最近、ぽこはとても気を使うようになった。

荷物を持ってくれたりもする。

妻の調子が悪くなってから、特に顕著になってきた。

心配しているのだろう。

しかし、明るく生きてくれているぽこに再び感謝である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

至福の瞬間(とき)

 

ぽこと風呂に入る。

ぽこはお湯を温めるなといい、しかし先にあがらないでくれという。

寒い風呂に入ってぽこの相手をするのは疲れる。

イライラして怒ってしまったり、強引に先にあがってしまうこともある。

 

先日のこと、いつものようにぽこはぬるい風呂を望み、私におれとう。「せっさん」や「あっちむいてほい」などを延延とやったりする。

私は、まあ寒いけど最後までおったろうか、と珍しく最後まで付き合った。

最後は、私がやけになって歌っていた「わたしバカよね~ おバカさんよね~ 」という歌を、ぽこが歌いたいといい、一緒に声を出して練習した。これはなかなか楽しかった。

かくして風呂から上がったとき、すでに1時間経過していた。。。。

 

いつもは 「ああ、時間をまた無駄にした~」とイラつく私であるが、ふと思った。

ひょっとしたらこれは贅沢な時間なんじゃないか?こんなに生産性の低い時間を、娘と二人で1時間も過ごす。なんと贅沢なんだ!と。

 

その二日後、もはや小学五年生になったぽこは、

「パパとお風呂入るのは恥ずかしくなってきた」と洩らした。

 

二人でお風呂に入る時間も、あと数回で終わりそうだ。

 

ますます貴重な時間に思えてきた。

こんなのんびりした時間を娘と過ごせたことに感謝したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

学力テストの前で朝から 「こわい、こわい」 というぽこ。

私は 「やった分だけしかできないんやから、自分の持っているものを

だすことだけ考えたらいい。こわくならんでいい」 と本人の感情を否認して説教する。

(よくある大人と同じ反応。。。。)

日課の漢字をしたり、私の買ってきた語彙の問題を一緒に少しやった。

 

ここで私が間違いを起こした。

前回の実力テストがかなり悪かったのを、じっくり話そうと思って伝えてなかったのだが、

おそらく私は内心、ぽこが「試験に対する心がけにかけていると」感じていたのだろう、

「この前」のテストは悪かったで」とつい言って点数を見せてしまった。

発破をかけることになればと思っていたが。

(それはこっちの思い込み。。。。)

 

本人はショックをうけたらしく、しばらく黙っていたが、

忽然とこちらに来て、泣いて言い分を私にぶつけてきた。。。

 

「テストの前にそんなん言われたらやる気なくなる」

「パパはいつも自分のことばっかり言って教えてぽこの意見を聞かない」

「パパが勉強教えるときは、鬼みたいや!」

「何でこんなんわからねんの!って言い方がきついねん」

「ママはテスト受けただけで励ましてくれるのに、パパは何にもいってくれへん」

「パパは頭いいかもしれんけど、ぽこは頭悪いねん。それを、「頭いい」って言わんといて」

「できるはずというけど、わからへんねん!」

「ぽこだって毎日、いややけど勉強してるのに、パパはいつもやってへんという」

「何をどこまでやったらいいのか教えて!」

「パパはいつもぽこにきつくいうから、パパはぽこのこと嫌いやと思う!」

 

これだけ言われても、なかなかわが子の気持ちは理解できにくい。

「本人は頑張っているとは思うが、他の子の頑張りとは違っている。頭が悪いのではなくやらないからできないのだ」 と思ってしまう気持ちがあり、なかなか共感できない。

 

泣きながら色々なことを言われていると、それはコンプレックスに触れるので、

私もだんだん傷つき落ち込んできて、暗くなり、話さなくなる。

 

言われているうちに、「俺はやはり子どもを(というか人を)愛することができないダメな人間かもしれない」「俺はきっと冷たい人間だ」「もうどうやって教えてもきっとうまくいかないだろう」 と落ち込んできて何も言えなくなる。

 

何も言わない私は、ぽこの見捨てられ不安をより強めることになり、

「なかなおりしてよ!もう、全部パパの言うとおりにするから」 とぽこは極端に

私に合わせようとしてくる。

こんな肛門期的な対応をされると、自分がそのようにして親の言いなりに生きてきただけに、そういう子にはなってほしくなかったと思い、自分の子育ての未熟さを思い、「親がそうだからしかたないよな」と思いつつ、悲しい気持ちになる。

 

自分をふり返ってみれば、口うるさい父に対して、思春期・青年期には全く愛情を感じることはなかった。いつも文句をいってくる父は多分私のことが嫌いで、私をつぶしたいのだろうなどと思っていたのを思い出す。私の方も、主観的には嫌悪感しかなかった。

 

そんなことが再びぽことの間で繰り返されるとは、何とも情けない。

自分では口出さないように気を付けているつもりだが、全く十分でないのだろう。

または、ぽこに対して、やはり肯定感が少ないのだろう。

 

父はいつも私に批判しかしなかったし、私も人に対して、そして自分に対して批判し続けているし、それがぽこに対してもどうしてもでてしまう。

そして、力はあるんだから、もう少しやればできるのに、と思ってしまう。

もちろん本人は、それはパパが勝手に押し付けたことで

「私は勉強できない。他のクラス子をみたらわかる。パパとは違うねん!」 という。

 

大人しかいない一人っ子の環境の中で、「自分はいつも大人にかなわない」とどこか思っているところがある。私との競争に意地になるのも、自分の劣等生を補償したいためだからかもしれない。丁寧に育ててきたつもりだったのに、ぽこにこのような劣等感が強く形成されてしまったとしたら、これは悲しいことである。世の中の家庭にはこのような悲劇がごまんとある。うちもそういう悲劇を起こしてしまっているかもしれない。

 

「こどもの個性を尊重しましょう」、というが、わが子が自分と違う人格を持つものとしっかりとみなすことが難しい。それは親密であり他人であることを同時に達成することが必要だ。

私は自分の人格の未成熟さのため、まだまだそれができきらない。

こんな風に自分を突き詰めていくのが肛門期的性格である。

 

家族の悲劇を起こさないために、私の場合、心理学があるのだが、その習得が年の割に追いついていない。