商業活動は人の欲望を満たしながら循環していく。活動に起因する不自然な幸福状態に人々は不自然であると気付きながら、消費を続ける。
例えば、AKBが大好きな友人は、AKBのCDを買い握手券を十数枚手にいれて握手会に行く。握手中は皆が憧れるアイドルを独り占め出来る。この一瞬の幸福を忘れられずに消費し続ける。さらに、アイドル側が客の好き嫌いをはっきり分けることで、勘違いした客の中で競争原理が働き、益々消費し続ける。アイドルに好かれたい一心で金を貯めて消費し続ける。好かれたアイドルに忘れられたくなくて消費し続ける。
例に挙げた活動は、長い目で見て、何も生み出さない。一部の人間を元気付けてその人間にとっての成功に導いたりするかも知れないが、その人間は潜在的に成功出来たはずだ。それ以外の人間の先は暗い。
一連の活動によって、一番得をする人間が、消費者をどういう目で見ているかなんて疑問に付す余地もない。
この様な例は、幸福の概念について、深く考えさせる。
商業活動によって生じる一瞬の幸福状態は、とてもさもしく、人々を、絶えず飽きたらない状態へと引きずり込む。この状態は私が想像する幸福とはかけ離れている。もしかしたら私のイメージすらも幼少から商業活動によって刷り込まれた空虚であるかもしれない。幸福について考える為には"幸福である"とは、正しくは、どの様な状態であるかを定義しなければならない。
そこで、"不幸"とは何かを考え、"不幸"ではない状態を幸福と定義したい。
例えば「何か良いことないかな」とか「幸せになりたい」とか言及する人間は、自らが"不幸"な状態であると示していることは、明白である。不幸状態にある人間は、イメージ付けられた幸福を欲求し続ける。そしてダミーの幸福を手に入れて自分が幸福状態であると錯覚する。そして幸福状態を忘れられずに、また欲求する。つまり、何かを欲求している状態は"不幸の連鎖"を引き起こしていると考察できる。
それゆえ、何かを欲求しない状態こそが、幸福であるということであると解釈出来る。
欲求を止めれば幸福になれるのだ。AKBは、不幸な人を生産し続けている。それが、不幸な当人にとって"幸か不幸か"はわからない。
資本主義である現代社会は、不幸状態を我々に強制的に押し付けている。そして搾取しながら循環し続ける。私はこの状態を不自然であるとしか思えない。しかしほとんどの人は、搾取、披搾取の構図に従わずに生きられない。この構図における最大の搾取者は、果たして幸せなのかな。
ここまで言及してきた幸福についての考察を次は宗教と結びつけたい。
同じようなこと考えて皆大人になっていくのかな。19歳になって漸くわかるが、辛い世の中だ。