トオボエ日記。

トオボエ日記。

伝わるか、伝わらないかじゃなくてトオボエしつづけることが大事。

Amebaでブログを始めよう!

公開初日の夜に観ました。

観た直後の勢いで書いたツイートがこれ。

前評判がものすごくよくて、映画好きの友達も先行上映で見て太鼓判を押していたので

絶対いいだろうという確信はあったのだけど、それを超えてくるものはあった。

とにかく役者がよい。

凪沙を演じる草彅剛を見て感じたのは『僕の生きる道』のときの衝撃と同じだった。

すごくうまいのに、何がうまいのかはっきりわからないという天性の才能。

多分、本人もわかってないんじゃないかな。

 

ただ、感動して涙して、それで終わっていい映画とも思えなかった。

無駄をそぎ落としたある種の説明不足さもある映画なのに、

逆に描きたいことを詰め込みすぎたごつごつした感じもあって、

そのごつごつと、自分の中の紐解けない感情に、答えを見つけたいという思いが生じた。

 

***

 

さて、感想。

 

この映画の感想を読むのが日課になってしまったのだけど、

ファンを中心に「凪沙さん、きれい」という感想が当初目についたのが私はとても不思議だった。

確かに草彅剛は綺麗な人。

クリムトの絵を見て何度「…つよぽんだ」と思ったことだろう。

今回もメインビジュアルを見て「あぁ、クリムトの女性だ」と思った。

ただ、本編においては基本的には凪沙は美しい存在としては描かれていないと思う。

いや、確かに綺麗な瞬間もあるのだけど、どちらかというとこの映画において凪沙は【美しくない】。

骨格はどうしたった男性的で、さらに年齢を重ねたことで美しさは衰えていっている。

いつも戸惑いの視線を浴びている存在だと思う。

モデルの女性が店に来て嬌声をあげていたとき、ショーを馬鹿にする酔客の罵声、

いずれもホームであるはずの場で凪沙の心がやすりにかけられているかのようだった。

でも、美しく若いトランスジェンダーのアキナではなく、凪沙が主人公なのは意味があると思う。

 

ある種の諦観を抱いて社会と最低限とのつながりで生きている凪沙が

一果との共同生活を通して社会とつながらざるを得なくなり、

さらに一果のために自身から積極的に社会につながろうとし、

その過程で母性という幻想に取りつかれてしまった物語ともいえるんじゃないか。

 

この物語は『白鳥の湖』とともに『赤い靴』もモチーフとして使われているけれど、

一果が一生躍らねばならない赤い靴を履いた少女だとしたら

凪沙は赤い靴を一果に譲り、母性というものにとらわれてしまった存在だと思う。

取りつかれてしまったら、そのゴールが幸せであろうと不幸であろうと止まることはできない。

『白鳥の湖』も『赤い靴』も基本は悲劇だ。

祈りや来世でしか幸せは約束されない。

 

凪沙は優しくて、本当に愚かな人。

一果が朝食をひっくり返したシーンがあった。

あのとき一果の逆鱗に触れたのは「あなたのために」という実母と同じ言葉を発した凪沙だった。

「あなたのために」という呪い。

あの一果の激しい抵抗を収めたのは凪沙の母性なのか、もともと持っていた包容力なのかはわからないけれど

あそこで激しい抵抗を見せた一果が、それでも愛される喜びからただ抱きしめられてしまった時点で

凪沙は母になる以外の選択肢がなくなってしまったような気がする。

もし一果がもう少し過去に愛されていたら、

もし一果がもう少し大人だったら、

凪沙との間に母子ではなくバディという関係が成立したかもしれないのに、

それが不可能になった瞬間であったと思う。

あのときの凪沙の慈愛の表情に「感動的」以外の意味を読み取る私は性格が悪いのかもしれないけれど。

 

母性というものに囚われてしまった凪沙が、実母と一果の関係性の中に割り込もうと決意したとき、

身体的、法的に女性になるという選択をすることは必然だったのかもしれない。

トランスジェンダー一般ではなく、凪沙を描いた物語だというのはここだと思う。

彼女が今まで手術に踏み切れず、ここで踏み切ったことは【凪沙らしさ】だからだ。

愚かなのかもしれない。

「私のため」ではなく「一果のため」にやったと自分で思ってしまっているところに悲しさがあった。

【一果を取り戻すため】だったから、田舎で親族の拒絶に遭い、

一果が追ってこなかった時点で元の諦観にまみれた凪沙に戻ってしまった。

あのまっすぐ田舎道を歩く凪沙はかっこよく、美しかったけれど、

傷つかないように鎧をまとって暮らしていた最初の新宿の凪沙と同じだった。

柔らかい、あの階段の上で二人で踊る凪沙、公園で踊る凪沙とは別人だった。

そして心を壊し、ケアを怠って、身体を壊してしまった。

悲劇だ。

 

物語は希望を胸に上京する一果に過酷な現実を見せる。

私は初見で、凪沙の死を悟った一果が入水自殺をはかろうとしたところで

映画館で一人、怒りに燃えていた。

一果を殺したら許さない、という思いだった。

(りんの構図的にとても美しい死への怒りの余波もあったと思う)

 

その次のシーンでその怒りは「あ、生きてる」と冷めるわけだけど、

でも本当に冷めていいのか、とこのコロナ禍の中でふと思う。

もちろん、ラストのバレエのシーンは【現実】で物語は赤い靴を凪沙からもらった一果の

凪沙との連帯や未来への希望で終わるわけだけど、

今、このコロナ禍で外国に行くことが叶わず、

コンクールも軒並み中止の憂き目にあっている中で見るあのラストシーンは

死ぬ直前に見た一果の夢のような気もして、なんだかその苦しさの可能性にふと心を持っていかれそうになる。

 

***

 

以上が凪沙に絞った感想。

 

そして私が感想をまとめられないでいるうちに監督が不用意な(いや、説明不足な?)ツイートをして

映画は一部場外乱闘の様相を呈してきた。大変残念なこと。

監督の真意がどうあれ、映画を映画として純粋に味わうにはノイズでしかない発言だったと思う。

案の定、見ないで批判する人が多発し、見ないという決断をさせてしまう事態に。

もったいないなぁ…と画面のこちら側でため息をついた。

 

監督はトランスジェンダーの方々の問題を社会に提起しようとして映画を撮ったのではなく、

トランスジェンダーの主人公のドラマを映画にしたのだ、と言いたかったのだと思うし、

上記感想で書いたように実際そうなんだろうと思う。

ただ、社会でがっつり生きながらノンポリを気取る大人がもはやダサいように、

監督も私も凪沙も一果もトランスジェンダーの方々も社会の一員である以上、

この映画は社会派ではないと言い切ることは不可能なのだと私は思う。

 

最初に引用したツイートのように、この作品を入り口に、世界が広がり、知識を得、

議論が深まることは有意義だと思うし、この映画にはその力があると思う。

私はまずは小説を読んで、また3回目の映画に行こうかな。