僕が昨日、イチョウに受け容れてもらえって思ったのは、今思うと、その直前に樹木に触れながら、
「いつもありがとう。…僕は何も持っていないから、(お礼に)僕をプレゼントしよう。」
って、自分を投げ出してたからかなって思う。

僕は勝手に自分を投げ出したわけですけど(笑)、樹木は、僕がどんなであろうと、僕を差別、区別、拒否はしないで、ノージャッジでしょ?

樹木は、相も変わらず、ただそこにそのままいた。

樹木は、自然の法、宇宙の法にしか従っていないから、僕がどんなであろうと関係ない。

ノージャッジで、ただそこにいてくれてたんですよ。

僕は、そこに勝手に癒されたみたいです(笑)。

「癒し」って、自分で自分に張り巡らしてたガードをおろして無防備になっても大丈夫って分かったとき、そこを味わえたとき、訪れるものなのかも知れませんね。

…逆に言うと、僕がノージャッジになるには、樹木のように、僕が自然の法、宇宙の法にしか従わないときに、初めてできることなのかもしれませんねー。