柳家小三治『落語名人会42 柳家小三治18』ソニー・ミュージックレコーズ、1996年。
「芝浜」(第13回柳家小三治独演会、1988年10月31日、於東京上野・鈴本演芸場)が収録されています。
12月に入ってかなり寒くなりましたが、この時期に聴きたい噺は何と言っても「芝浜」だ、という落語ファンは多いはずですで、私もその一人です。
ライブで聴きたくもありますが、落語会に出掛けても、そこでお目当ての噺が聴けるかどうかは分かりませんが、そういえば小三治師匠の「芝浜」のCDは未だ聴いていなかった…と思い出しまして、今日の午後は時間が空いたので、一人部屋に籠もって、ステレオでひっそりと聴きました。
ん~。
いいです。
一言で評すなら、
否定的な言葉によってではありますが
「カラッとドライであって全く芝居臭くなくて好い」
と表現したいです。
以下、この口演についてのかなり個人的な感想をメモしておきます。
(以下は、自分でも分かりにくい表現だと思います。また的外れで浅はかな考えであったらすみません。m(_ _ )m)
「夫婦愛」を謳った噺として泣かせるような演り方もあるのでしょう。
京須偕充氏のライナーノートによれば、この口演よりも以前には小三治師匠本人もとことん泣かせようと演り、また京須氏もあざとさを感じたことがあったそうです(ちょっと信じがたいですが)。
この口演はそれらとは無縁だと思います。
大金を拾い有頂天になって友人を家に呼び込みドンチャン騒ぎをして泥酔して寝込んだ夫が起きてから、妻が「一世一代(いっせいちだい)」の芝居を打って夫をだますシーンが注目です。
「お金など拾っていていない」ということを信じ込ませるための大芝居を打つこのシーンを、妻が夫を相手に懸命に下手な芝居を打っている姿として観客に見せる(聴かせる)ことで、この噺全体が持つ芝居臭さを見事に消し去っているように感じました。
妻からの酒に溺れる夫に対する愛(夫婦愛)はもちろん描かれていますが、それ以上に、妻の一所懸命に生きる姿に重点を置いて描いている、それを、夫をだます下手な芝居を一生懸命に行うシーンを通じて描いている…と思うのです。
あとサゲの「よそう。夢になるといけない」ですが、オチであるとともに、妻への感謝のことばであることに、今回この口演を聴いて初めて気が付きました。
今まで色々な落語家の「芝浜」をライブで、あるいはCDで聴いてきました。
小三治師匠の「芝浜」をライブで聴いたこともあります。
いいと思ったこともあれば、芝居臭くて…と思ったこともあります。
が、こういうドライな「芝浜」は初めて聴いたように思います。
泣けないし、また笑えもしない「芝浜」ですが、いい噺を聴いた年末の午後になりました。