「多分、僕は結局のところ、恋文しか書けないのだと思います。」
処女作『それいぬ』の後書きでこう語った嶽本野ばらがデビュー以来初めて上梓した非「恋文」、それが本作『金脈―The OILSHOCK!』だと云えるのではないでしょうか。
彼自身、家族の絆というテーマに初めて挑んだと語っていた……はず。
主人公が自分の世界を守るための闘いが描かれるというのはもはやお約束ですが、その時傍らにいるのは、主人公が恋焦がれる男子ではなく、GRATEFUL DEADをこよなく愛するヒッピーな”ジジイ"です。
これまでの嶽本作品は、読者は主人公に自らを投影し、恋人役の中に野ばら様を幻視するという構造になっているものが多かったのです。
主人公に名前を付けない理由について、野ばら先生は「読者に自分の物語として楽しんでほしいから」と語っていますからこれは間違いない。
あるいは逆に、野ばら先生の分身らしき男性が主人公で、その目を通して読者が描かれるという場合もあります。「わたし」がいかに野ばら先生を尊敬し、慕い、愛し、そして依存しているか、そしてそんな「わたし」を野ばら先生がどれほどいじらしく思い、守りたいと感じているのかが切々と語られます。読者がいつのまにか、その気になってしまうものです。
そして二人は二人の世界を守るため、手を取り合って闘うのです。
二人は魂の双子。
二人だけの王国が、そこには確かにあります。
野ばら先生は王子で、読者は姫なのです。
これが野ばら先生が「カリスマ」と呼ばれてロリータ界で絶大な支持を受けてきたあらましです。
そこから、方向転換があり、野ばら先生の「カリスマはやめます」宣言にファンは浮足立ちました。
そして本作で嶽本野ばらは「王子様」から「ジジイ」になった――これは重大な転換点です。
警察官として勤め上げたジジイは、妻を亡くして、「グレて」、ヒッピーになるのです。ロリータのカリスマから突然オタクへと転向し、ファンを失った野ばら先生と重なって見えてはこないでしょうか。
世間の目を憚らず、エロいことばかり云っていて、ドルオタなジジイは、かなり極端な戯画ではありますが野ばら先生を投影していると云えましょう。
主人公とジジイの間には、かつての嶽本作品の恋人同士に見られたような以心伝心はありません。擦れ違いながら、互いを知ってゆく、尊重する心を育んでゆく、そんな過程がつぶさに描かれます。
此の距離は、そのまま野ばら先生と読者の距離でしょう。
いつでも全身ロリータブランドで固めて澄まし顔をしているロリータは、今では少数派になりました。
「気合の入ったロリータさんにそれはロリータじゃないよといわれれば、そうですねと認めます」というような気負いのないロリータが多いのではないかと思います。
彼女たちは、命を懸けるような悲壮さで世間の目と闘わなくてもよくなりました。
こうして野ばら先生とロリータは戦友ではなくなったのです。
いま、野ばら先生はロリータたち、即ち読者たちを下の世代として捉えているように見えます。
闘争の時代を乗り越えてきた、次の世代。
親では近し過ぎる。親は教育者であり庇護者だから。
そうではなく、見守り、時に知恵を貸し、逆に新しいものを教わる関係として野ばら先生は「ジジイ」という存在に自らを仮託したのではないでしょうか。
