瞑想修行などする必要はありません

53:2014/01/17(金) 16:05:35.16 ID:
悟りや解脱というものが、論理的・哲学的な思考によってもたらされるのであれば、論理的・哲学的な思考の訓練をすれば良い話であって、わざわざ瞑想修行などする必要はありません。

論理的・哲学的に考える力は、それ自体素晴らしいとは思います。
しかし、いくら論理的な思考を積み上げても、私たちの心は、感覚や感情、わき上がる思考に振り回されてしまう。
我々は、ほとんど刺激に反応して生きている状態です。

ところが瞑想をしていくと、その動き回る心を自覚できるようになってきます。
自覚することができると、制御できるようになってきます。
刺激に反応する生き方から、反応を選ぶ生き方に転換してくるのです。

瞑想によって磨かれる理性は、知識や論理による理性とは違います。
より根源的な理性なのです。

その恩恵は、死後の世界があろうが無かろうが、生まれ変わりがあろうが無かろうが、いまこの瞬間から、この人生において享受することができるものです。

171:2014/01/21(火) 06:27:14.73 ID:
恩というのは怨みと等しい

解脱するとともに恩も怨みも消滅するはずである

恩がある借りがある貸しがある恨みがある

それら想いと所有と

根こそぎ焼き尽くした人

世との借り貸しを清算した人

彼が解脱者と呼ばれる

恩や怨に執着する者はそもそも出家しない

彼は子も親も妻も自分も捨てない

172:2014/01/21(火) 06:37:10.00 ID:
解脱者が過去に恩がある人に偏って奉仕すれば何ら解脱していないことになるし、
解脱者は恩の有無に関わらず等しい慈悲を実践するはずである

人情の恩・仁義の法は世間の法であって道の人の法とは異なる、というよりは逆

192:2014/01/21(火) 16:37:23.25 ID:
獅子吼するのは仏陀、如来だけ。
それ以外は阿羅漢ですら自分が達した境地を(外部に)口外することは
戒律で戒められている。

193:2014/01/21(火) 16:38:53.05 ID:
そして、阿羅漢に達したことを言いたいという思いもなくなるらしい。
阿羅漢に達したら、「阿羅漢に達した私」という見方じゃなくなるし、そういう欲もないとか。

194:2014/01/21(火) 16:52:01.01 ID:
修行者としてはペーペーの私ですら、瞑想時の集中の深まりがばっちり決まれば
自他の区別がなくなる(というか出来なくなる、どこで区別していいかわからない)
という意識状態になる。

光に包まれる、心身に快適さ(喜や軽安の弱めの奴)が生じる、心が部分的に
停止する、といった一連の変化も同時に起きてくる。

心が部分的に停止っていう言い方は、おかしな言い方に見えるかもしれないが
全部止まっているわけではないから、そういう風にしか表現できない。
止まっている心を、まだ動いている心の部分が認識しているという不思議な状態
になる。

これはまだ色界(色梵天の意識レベル)に、きちんとは入れていないけど、だいぶ
近い状態ではあるはずだけど、仏教的にはまだまだ全然的外れのところにいる。

しかし、この先に禅定があるだろうことは感覚的にわかる。
つまり、まだ動いている心の部分を、集中によって統一することで、禅定に入れる
目処が立っている。

禅定があるなら、お釈迦さまがウソをついていない限り、帰納的に考えて二禅も
あるだろう。二禅があるなら三禅もあるだろう。三禅があるなら四禅もあるだろう。
色界四禅があるなら。無色界四禅も本当だろう。
無色界四禅が本当なら、その先に六神通があるだろう。
六神通があるなら、過去世、来世があるだろう。

と、いう風な推測は一応できる。

198:2014/01/21(火) 17:42:14.54 ID:
>>194
>修行者としてはペーペーの私ですら、瞑想時の集中の深まりがばっちり決まれば
>自他の区別がなくなる(というか出来なくなる、どこで区別していいかわからない)
>という意識状態になる。

観察とその対象があるので区別されています。
つまり、自他の区別が無くなるということを観察出来ているので自他があります。

200:2014/01/21(火) 17:46:56.93 ID:
>>198
そうですね。
五蘊ごとに切り分けた区別は出来なくなりますが、切り分けない何かを認識しており
我はまだ残っています。

201:2014/01/21(火) 17:48:58.38 ID:
インターネットで解脱してるって言ってるのは、信用できない。
言うは易し、行うは難し。