「思いは口にすれば現実となる」


この言葉は本当。
冗談9割でも、どっかで思ってればそうなる。


でも、
現実が近付くと、
案外二の足を踏むことばかり。


そんな自分を突き動かすのは、目の前の真実。
あるものはある。
ないものはない。

だから受け入れる。
そうなることを望んでいたから。


じゃあ、
この壊れそうな気持ちは何?

あの時の自分を、
3歩後ろから眺めたらどう思うんだろう?

Is it really a lust?



心は泣いている。
2月14日は、九州リーグの最終節。師匠の決勝卓の観戦に行きました。
結果、3位で昇級。
これに関してはまだ内容がまとまってないので、また次の機会に挙げることにします。


本題は、その後のばってんリーグ最終節。対戦相手は名倉p、塚本p、羽山さん。

僕の決勝卓への進出は理論上可能とは言え、九分九厘目無しなので勉強のための対局にするつもりでした。


でもね、
また色々やらかした。

勉強どころじゃなくて、
半年間のばってんリーグで出た悪い点の総決算でした。

ワンチャンス病、
意味のない全ツッパ、
不安定な仕掛け、
自分勝手なドラの放し、
受けでもオリでもない中途半端な構え方…

その最たるものは、4回戦オーラスのラス親。ドラは5で、4順目に以下の聴牌。

(34666)發發五六七七八九

ここにツモ4。
打ったのは(6)。

4(3466)發發五六七七八九

今更だけど、
こうやって文字して客観的に見るとヒドいもんだな…

なにやってんだろ

頭の中では

(23466)五六六七七八45

みたいな形を思い浮かべてた。
とにかく何か高打点が欲しくて。

確かに何手かけるんだろうな

結局、

(3466)345五六七七八九

の形で聴牌。
リーチに行って流局。
次の1本場で8000は8300を打ち込んで、
僕のばってんリーグはお終い。


そもそも、
2回戦の途中ぐらいから苛立ってた。
何にも身に付いてないんだったら、
もうとにかく思うままに打とう、と。

前々から師匠に指摘されていた「打牌スピードの遅さ」だけはどうにかしようと思って、
頭に浮かんだ打牌候補をとにかく早く切るだけ。

後は何にも考えてなかった。

どうせ後で叱られるんだから、今のうちにたくさんヘタこいとこうと思った。

そしたら、
なんか悔しくなってきた。
手成りで進めてダメ、
ちょっと捻ってダメ、
前に出ては潰され、
引いては被せられ。

もう苛々に任せて牌を切ってた。

そして対局が終了して、
すかさず師匠が件の牌姿を持ち出し、

「お前、なんで(6)切った?」

って問い詰められた。

その時の正直な気持ちは、
自分の下手くそ加減と、
低レベルな指摘をさせちゃう申し訳なさと、
たぶん見抜かれていた苛々の後ろめたさが混じり合ってて、

「…別に間違ってないんじゃないですか?」

って無愛想に答えた。

そしたら
むっちゃくちゃに叱られた。

アホか、バカか、下手くそか、
と言われながら指導してもらった。

みんなが祝勝会に向かいだして、僕の周りからいなくなってから、僕は握ってた麻雀牌を卓に投げつけた。

顔をおしぼりで拭く振りして泣いた。

あんなに泣いたのは、
ここしばらくの記憶にないぐらい泣いた。


今振り返ってみれば、
確かにノート取ったり、勉強会に参加はしたけど、
人前で誇れるほどの努力はしてない。

むしろ努力って言葉がカッコ悪いとさえ感じてた。

麻雀歴と、惰性で打ってるフリー客相手に勝ってるだけで天狗だった。


環境を活かせてない自分は、
うんこだ。
何でも自分の型に嵌めて考えてたら、そりゃ身に付かん。

師匠に言われた「1」を実践しただけで、「100」出来た気になってる俺はうんこだ。


この文章ははっきり言って、
自分の胸の内に浮かんできた反省とか後悔とか、
なんかそんなのを書き殴っただけだし、

言ったり書いたりしたところで、だから何?って思う。


結局は、
泣くぐらいなら、
それに見合うだけの努力をしろと言うことだと思う。


でも、
泣いたせいで、
なんか言い訳ってカッコ悪いな、とは思えた。


これを読んでくれているであろう、大学の友人たちよ。
俺の麻雀のレベルってこんなもんよ。なーんも凄くないとよ。うんこなんよ。


普段自分で、
「俺から歌と麻雀取ったら何も残らないし、どっちが欠けてもダメ」
って言ってるくせに、なんなのかと。


学生指揮者時代は、
半泣きで指揮の練習して、
一つずつ何か出来るようになって、
ちゃんと結果出して、
それなりの評価も受けたことがあるくせに、

麻雀ではできないんか、と。

なんか自分に腹立つ。
てゆか今日も泣いたし。
俺は子供か、と。


叱られたくないんだったら、
出来れば良くて、
出来るようになるためには、
努力すりゃ良いだけ。


熱いバカにならんとダメだね。
トップ画とおんなじ。
あたいバカになりたい。


でも、
今は何を言ったところで、
信頼度が無いしね。


どうせ今認められてないんなら、10年でも20年でも掛けて結果出しちゃれば良いや。

そん時に
「昔に比べてちょっと変わった」
って言ってもらえば良いや。

プライドってカッコ悪ぃな。
自尊心って書くんだぜ。
自分を尊ぶ心だってさ。

こんなうんこみたいな男が、自分を尊んでるんだからお笑いさね。

あー、
なんか言葉は投げやりだし、
文章汚いし最悪。


なんか
とりとめなくなったので
おしまい。


この日記は絶対消さないです。
…プライベートとの両立は、なかなか難しいものです(^^;)

さて、今日も今日とて朝から図書館へ。
まだまだ文献調査の段階なんですが、僕の「麻雀」というゲームのイメージには無かった概念が明らかになりました。

それは、「麻雀は『合せもの』とも言える」という概念。

これは、日本遊戯史の権威・増川宏一さんの著書『合せもの』の中にある一節。

「合せもの」とは、例えば一番イメージしやすいもので言えば「かるた」とかでしょうか。
日本には古来から、「合せもの」という遊びの文化がありました。

例を挙げると…
○貝合わせ
装飾を施した貝の内側に、和歌の上の句・下の句を書いたものを合わせるゲーム。

○草合わせ
外に生えている草花を2人で比べ、その美しさを競う遊び。負けた方は自分の衣服を相手に渡す。

○闘犬・闘鶏
文字通り、犬や鶏を闘わせる遊び。観戦者は大体、外ウマを賭けて楽しむ。

○かるた
ポルトガルから伝来し、日本で独自の文化を築いたゲーム。
絵札を合わせて手役を作ったり、読み札と取り札に分けて取得枚数を競ったりする。


これらはほんの一例ですね。
日本における「合せもの」には、大きく4つほどの意味に分けられます。

1:競い合う
2:一致・適合
3:競り合わせ
4:武技

もちろん、まだまだ細かい意味はあるのですが、まぁこの辺が大意でしょう。

で、増川氏曰く、
「麻雀は麻雀牌を『合わせ』、手役を『合わせ』、他のプレイヤーと『合わせる』」ゲームであると。

麻雀を麻雀そのものとしてしか捉えていなかった僕からすれば、驚愕の事実でしたね。

古来から日本に存在する「合せもの」というゲームの国民性(?)と、中国からやってきた麻雀が、どこかで一致していたから浸透した…

とも言えそうです。
今日は、これだけじゃなくて麻雀と花札のルールの共通性について調査しました。
これは、また次回に。