「私が、他の誰でもない私であることに驚く」 

 

これは、論理哲学論考でいうところの"語り得ぬもの"であることにきづきました。 

 

なぜなら、私が、私以外である可能性をメタ的に議論することはできないからです。メタ的に議論しようとしても、私がそれを議論している時点で、私が私であることが、前提になっているからです。どんな人でも、「私が、他の誰でもない私である」ことの理由を知りません。どんな人も、メタ的に(自分が自分である前提なしに)、自分が自分以外である可能性を議論することはできないからです。

 

だから「私はなぜ私に生まれたのだろう?」という問いも、語り得ぬものです。 「私が私に生まれた」ということは、語り得ず、現に示されるだけです。

 

同様に、「私はなぜ、翌朝目覚めた時も私なのだろう?」という問いも、語り得ぬものだと思います。

 

ここまで書いて少し自信がなくなってきましたが、要は、「私はなぜ私に生まれたのだろう?」という問い、「私はなぜ、翌朝目覚めた時も私なのだろう?」という問い、これらの哲学的な問いは、論理哲学論考でいうところの"世界"(事実の総体)の中には答えを見出せないと、私は考えました。つまり、上記の問いに関して、答えを見出そうという哲学的な試みは、ことごとく失敗すると思います。

 

これはとても重要なことを示唆しています。科学がどれほどに進歩しようとも、あるいは宇宙の歴史上で最も科学が進んだ文明に属する生物であっても、「私はなぜ私に生まれたのだろう?」という問いに答えられないということです。この問いは、科学や知識の原理的限界の向こう側に位置する問いです。こんな身近に原理的限界があるなんて、少し残念な気もします。

 

ところで、自己言及するところに、"語り得ぬもの"が生じることが多いようです。

今後も語り得ぬものに気づいたら、逐一、メモしようと思います。