●私の家族(父母)
父・母の顔は、ブログをやるような人は誰も知らないから、大丈夫だろう。

☆ 葛飾区本田木根川 母・小山喬子23才(s19年) この年はまだ、マッカーサーのGHQが置かれた第一生命本社に勤務している。 (①母が嫁いできた経過は追記)

☆ 中学1年生(科学部)後列右から3人目。この当時、私たちの田舎の中学校では優秀な生徒の全員が科学部に集まっていた。
上甲昇先生は、仲宗根美樹の「川は流れる」が好きだった。私は中学3年になると、沢たまきの「ベッドで煙草を吸わないで」が好きになっていた。
川は流れる・・仲宗根美樹
ベッドで煙草を吸わないで・・沢たまき (②上甲昇先生のことについては追記)

☆ 1965年(s40) 兄19才 父46才 私16才
父が復員してから暫くして、村に定時制高等学校の分校が置かれることになった。
父はその分校の責任者になって国語を教え、体育の授業には柔道を教えた。生徒の大部分が寺の檀家であったのである。その他の教科は、中学時代の同級生に先生になって貰った。
授業は夜間に村の小学校の校舎で行なった。そんな様子であったが、国立大学に入学する者も出てきた。

☆ 1966年(s41,5,1) 母・44才 父・46才

☆ 1968年3月、京都での私の受験に同伴して上山し、上賀茂神社で。母・喬子(たかこ)47才。
母は、イブ・モンタンが好き。http://youtu.be/cOsVVeojMZs ・ http://youtu.be/ceFxrmQhRAg ・
Yves Montand - Les Feuilles Mortes
私は、コラ・ヴォケールが好き。○ Le temps des cerises : Cora Vaucaire.. ・・・ ○ Cora Vaucaire "Les feuilles mortes" (version originale) いつか、銀巴里に行ってみたいと思っていた。京都の人口ではシャンソン喫茶は成り立たない。レッスンしてくれる喫茶もなかった。(大阪にも、それ程はないのである。)
学生時代に、いつか行ってみたいと思った銀巴里は、ヤマハホールの裏の地下にあった。天井の低い、音も良くない部屋だったが、地方に居たときから憧れていた東京のシャンソン喫茶だった。しばらくしたら、銀巴里は閉められることになった。
「シャンソンの友」というのがあった。あれは、どういう人たちだったのだろう。[芦野宏 : 幸福を売る男] http://youtu.be/qPxCi1B6CxI
アンドレ・クラヴォー : パパと踊ろう ・ イブ・モンタン:枯葉 ・ Edith Piaf - 愛の賛歌 ・ 越路吹雪 - 愛の賛歌

☆ 東本願寺「御影堂」での納骨の後、宮御殿で御斎(おとき)をいただく二人。
左【叔母(ナカヲ)】 右【母・喬子(たかこ)65才】

☆ 1999年 自坊で「三部経」折本を手にする父・孝雄 79才。

☆ 1992,1,30沖縄・真教寺 仙台教区沖縄研修(41才)

☆ 1995 .3. 5 田原惟信(たはらゆいしん)・真教寺住職とともに。
現在「ひめゆり之塔」が建っている、世間によく知られている地下壕の内に初めて足を踏み入れたのは、この壕で娘を亡くされた金城和信(きんじょうわしん・後のひめゆり遺族会会長)夫妻と、田原惟信師、安里(あさと)神徳寺の仲尾次(なかおし)盛忠氏の4人である。
収骨が終わって、金城和信氏が「ひめゆり之塔」の碑銘を、田原惟信師が仲宗根政善(なかそねせいぜん)琉球大学名誉教授が作った「いわまくら かたくもあらん やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは」の歌を揮毫した。
この最初に建てられた「ひめゆり之塔」と「歌碑」は、新しい慰霊の塔の陰に、ひっそりと建っている。

☆ 一月、近江作にて(ゴールデンロータリー)

☆ 近江作にて(沙代子)

☆ 石倉三郎と忘年会(彼は小豆島出身でs21年生まれ。)
私は、いつも、役目からカラオケを一番最初に歌うことが多い。否、むしろ歌うことは好きだと言って良い。いつも石原裕次郎の[狂った果実]を歌う。(作詞は慎太郎)石原裕次郎 狂った果実 そうして、島倉千代子 - 『すみだ川/東海林太郎・島倉千代子』も。
文楽は『摂州合邦辻』・・『妹背山婦女庭訓 山の段』が好きだ。映画は成瀬巳喜男の『浮雲』・・『女が階段を上がる時』、母と似ている高峰秀子が好きだ。


☆ 私が高山に赴任したら、いつものシェルブールのマスター夫婦と石倉夫婦が遊びに来てくれた。彼の奥さんは江東区で「花菱」という割烹料理屋をやっている。奥ゆかしくて美人だ。あの当時は、何でも楽しかった。(私の両隣に石倉夫婦、両端にシェルブールの橋本夫婦)

☆ 白川秀樹博士の「ノーベル科学賞」祝いの席で。本物のメダルは、少し重かった。「伝導性高分子」の発見と開発が評価されたのだった。(2002年)
白川博士のお母さんは、当時、私が居た別院のすぐ裏手の寺の出身で、白川家に嫁いだ。白川家は医者だった。そういう事を聞いたので、久しぶりのお墓参りに誘ったのだ。そうして、ついでに別院での夏の暁天講座をお願いしたのだった。

☆ 1才のときに別れた息子・直哉と20年振りに会った。大阪梅田の新阪急ホテルのロビーで待っていた。歩いて近づきながら、お互いに親父と息子であることを瞬時に分かった。神戸大学の3年生になっていた。
私は志賀直哉が好きだった。1968年に入学すると直ぐに文芸部を立ち上げた。初めての夏休みに四国に帰ると、秋田の六郷に養子に行った御爺さんの弟が遊びに来ていた。彼は字が上手かったので、本堂に掲げる永代経の寄付札に『大谷文藝』と書いて貰い、それを担いで学校に帰っていった。
母も昔は文学少女だった。1983(s58)年、小林秀雄が死んだ。母は私が小林秀雄のことを大事にしていることを知っていたので、直ぐに電話で私に知らせてきた。
母も新聞に投稿していた。四国の田舎から何を投稿していたのか。私は、採用薄謝の図書券で、それを知ったのである。
【追 記】
①母が嫁いできた経過
母は、戦後しばらくして父と見合いし、東京から母の母(祖母)と一緒に四国に嫁いできた。(母は本当は次女であったらしいが、自分が生まれる前に長女は亡くなっていた。また母の父は銀行員であったが、大正時代にスペイン風邪で亡くなり、御爺さんと祖母によって一人っ子のようにして育てられた。嫁いでくるときは、祖母一人になっていたので、木根川の家をたたんで、その祖母を連れて嫁いできたのである。)実家は浄土宗であった。
①母が嫁いできた経過
母は、戦後しばらくして父と見合いし、東京から母の母(祖母)と一緒に四国に嫁いできた。(母は本当は次女であったらしいが、自分が生まれる前に長女は亡くなっていた。また母の父は銀行員であったが、大正時代にスペイン風邪で亡くなり、御爺さんと祖母によって一人っ子のようにして育てられた。嫁いでくるときは、祖母一人になっていたので、木根川の家をたたんで、その祖母を連れて嫁いできたのである。)実家は浄土宗であった。
見合いは、松本某という人の紹介であった。彼は東大出の長男に母を嫁がせたかったのだが、なぜか急遽、私の父と見合いすることになった。松本某は、私の曾御爺さんの奥さんの出里の人で、当時は職業軍人だった連隊長を辞めて第一生命の軍方面部長をしていた。
私は知らなかったが、戦争中は兵隊さんの全員が生命保険に入っていたらしい。そうして戦前で一番大きな生命保険会社が第一生命だった。松本某は自分の友達が各処の連隊長をしていたので、その連隊にノコノコと出掛けて行って、連隊の全員を第一生命に加入させたらしい。
私は知らなかったが、戦争中は兵隊さんの全員が生命保険に入っていたらしい。そうして戦前で一番大きな生命保険会社が第一生命だった。松本某は自分の友達が各処の連隊長をしていたので、その連隊にノコノコと出掛けて行って、連隊の全員を第一生命に加入させたらしい。
父は本当は医者になりたかった。母と結婚した後で、どこかの医大に行きたかったらしいのだが、食糧事情が悪くなり、また直ぐに兄ができたので、そのままになってしまった。(母は若しかしたら、騙されたと思っているかも知れない。・・これは冗談。)
戦後の読み物に「リーダーズダイジェスト」という読み物があった。それを、長い間ズッーと購読していて、最新の薬の知識を蓄えていた。
母が病気で市立病院に入院しても中々直らないのを不思議に思って、父は医者が処方した薬を舐めてみた。その薬には重曹を使ってはいけないのに、重曹が入っていた。父は、医者にそのことを指摘して、母は命を取りとめたことがある。父は、私が小さい頃、よくペニシリンを私のお尻に打った。今では、そんなことは出来ないけれど。
戦後の読み物に「リーダーズダイジェスト」という読み物があった。それを、長い間ズッーと購読していて、最新の薬の知識を蓄えていた。
母が病気で市立病院に入院しても中々直らないのを不思議に思って、父は医者が処方した薬を舐めてみた。その薬には重曹を使ってはいけないのに、重曹が入っていた。父は、医者にそのことを指摘して、母は命を取りとめたことがある。父は、私が小さい頃、よくペニシリンを私のお尻に打った。今では、そんなことは出来ないけれど。
②上甲昇先生のことについて
この上甲昇先生は、飛行機のプロペラの設計ができるほどの優秀な先生で、英文でイギリスの雑誌に投稿していた。ミノルタの一眼レフを持っていた。原稿に添付される写真を「何を使っている?」とイギリスから言うて来たと、日本のカメラの優秀さを誇らしげに語っていた。もちろん写真の現像も教えてくれた。
この上甲昇先生は、飛行機のプロペラの設計ができるほどの優秀な先生で、英文でイギリスの雑誌に投稿していた。ミノルタの一眼レフを持っていた。原稿に添付される写真を「何を使っている?」とイギリスから言うて来たと、日本のカメラの優秀さを誇らしげに語っていた。もちろん写真の現像も教えてくれた。
丁度この頃、ラジオ用のミニチュア真空管が出来ていたが、私はST管で、並三、高一、5球スーパーを作った。Fuji、エンヤのエンジンを付けたUコン飛行機。グライダー。蒸気エンジン。免許はないが校庭でオートバイにも乗れた。机に固定したガソリンエンジンも自由にかけることが出来た。金属へのメッキも教えてくれた。(私は、科学準備室の床下に、かなりの量の青酸カリがあるのを知っていた。)
中学生だったが、大人のように扱ってくれた。そして山に行くことも教えてくれた。先生は、毎年夏季休暇を利用して、イタリヤ製の赤い山靴を履いて、四国からわざわざ夏の北アルプスに登っていた。単独で、あるいは奥さんを連れて登るときもあった。奥さんはお琴の先生だった。そのときは古いジャバラ式のカメラを持って行った。軽くてブローニーフィルムが使えるからだと私に説明した。
私たち兄弟は、この上甲昇先生から沢山の影響を受けた。心から感謝している。
私たち兄弟は、この上甲昇先生から沢山の影響を受けた。心から感謝している。













































