●私の家族(父母)



 父・母の顔は、ブログをやるような人は誰も知らないから、大丈夫だろう。



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☆ 葛飾区本田木根川 母・小山喬子23才(s19年)   この年はまだ、マッカーサーのGHQが置かれた第一生命本社に勤務している。   (①母が嫁いできた経過は追記)



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☆ 中学1年生(科学部)後列右から3人目。この当時、私たちの田舎の中学校では優秀な生徒の全員が科学部に集まっていた。

 上甲昇先生は、仲宗根美樹の「川は流れる」が好きだった。私は中学3年になると、沢たまきの「ベッドで煙草を吸わないで」が好きになっていた。

川は流れる・・仲宗根美樹

ベッドで煙草を吸わないで・・沢たまき (②上甲昇先生のことについては追記)

  

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               ☆ 1965年(s40) 兄19才   父46才   私16才

 父が復員してから暫くして、村に定時制高等学校の分校が置かれることになった。

 父はその分校の責任者になって国語を教え、体育の授業には柔道を教えた。生徒の大部分が寺の檀家であったのである。その他の教科は、中学時代の同級生に先生になって貰った。

 授業は夜間に村の小学校の校舎で行なった。そんな様子であったが、国立大学に入学する者も出てきた。



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              ☆ 1966年(s41,5,1) 母・44才   父・46才

 

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☆ 1968年3月、京都での私の受験に同伴して上山し、上賀茂神社で。母・喬子(たかこ)47才。

母は、イブ・モンタンが好き。http://youtu.be/cOsVVeojMZs ・ http://youtu.be/ceFxrmQhRAg

Yves Montand - Les Feuilles Mortes  

 私は、コラ・ヴォケールが好き。○ Le temps des cerises : Cora Vaucaire.. ・・・ ○ Cora Vaucaire "Les feuilles mortes" (version originale)  いつか、銀巴里に行ってみたいと思っていた。京都の人口ではシャンソン喫茶は成り立たない。レッスンしてくれる喫茶もなかった。(大阪にも、それ程はないのである。)

 学生時代に、いつか行ってみたいと思った銀巴里は、ヤマハホールの裏の地下にあった。天井の低い、音も良くない部屋だったが、地方に居たときから憧れていた東京のシャンソン喫茶だった。しばらくしたら、銀巴里は閉められることになった。

 「シャンソンの友」というのがあった。あれは、どういう人たちだったのだろう。[芦野宏 : 幸福を売る男] http://youtu.be/qPxCi1B6CxI

アンドレ・クラヴォー : パパと踊ろうイブ・モンタン:枯葉Edith Piaf - 愛の賛歌 ・ 越路吹雪 - 愛の賛歌



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☆ 東本願寺「御影堂」での納骨の後、宮御殿で御斎(おとき)をいただく二人。

          左【叔母(ナカヲ)】      右【母・喬子(たかこ)65才】

 

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            ☆ 1999年 自坊で「三部経」折本を手にする父・孝雄 79才。



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            ☆ 1992,1,30沖縄・真教寺 仙台教区沖縄研修(41才)



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☆ 1995 .3. 5 田原惟信(たはらゆいしん)・真教寺住職とともに。

 現在「ひめゆり之塔」が建っている、世間によく知られている地下壕の内に初めて足を踏み入れたのは、この壕で娘を亡くされた金城和信(きんじょうわしん・後のひめゆり遺族会会長)夫妻と、田原惟信師、安里(あさと)神徳寺の仲尾次(なかおし)盛忠氏の4人である。

 収骨が終わって、金城和信氏が「ひめゆり之塔」の碑銘を、田原惟信師が仲宗根政善(なかそねせいぜん)琉球大学名誉教授が作った「いわまくら かたくもあらん やすらかに ねむれとぞいのる まなびのともは」の歌を揮毫した。

 この最初に建てられた「ひめゆり之塔」と「歌碑」は、新しい慰霊の塔の陰に、ひっそりと建っている。



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            ☆ 一月、近江作にて(ゴールデンロータリー)





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            ☆ 近江作にて(沙代子)



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☆ 石倉三郎と忘年会(彼は小豆島出身でs21年生まれ。)

 私は、いつも、役目からカラオケを一番最初に歌うことが多い。否、むしろ歌うことは好きだと言って良い。いつも石原裕次郎の[狂った果実]を歌う。(作詞は慎太郎)石原裕次郎 狂った果実 そうして、島倉千代子 - 『すみだ川/東海林太郎・島倉千代子』も。

 文楽は『摂州合邦辻』・・『妹背山婦女庭訓 山の段』が好きだ。映画は成瀬巳喜男の『浮雲』・・『女が階段を上がる時』、母と似ている高峰秀子が好きだ。





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☆ 私が高山に赴任したら、いつものシェルブールのマスター夫婦と石倉夫婦が遊びに来てくれた。彼の奥さんは江東区で「花菱」という割烹料理屋をやっている。奥ゆかしくて美人だ。あの当時は、何でも楽しかった。(私の両隣に石倉夫婦、両端にシェルブールの橋本夫婦)







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☆ 白川秀樹博士の「ノーベル科学賞」祝いの席で。本物のメダルは、少し重かった。「伝導性高分子」の発見と開発が評価されたのだった。(2002年)

 白川博士のお母さんは、当時、私が居た別院のすぐ裏手の寺の出身で、白川家に嫁いだ。白川家は医者だった。そういう事を聞いたので、久しぶりのお墓参りに誘ったのだ。そうして、ついでに別院での夏の暁天講座をお願いしたのだった。



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☆ 1才のときに別れた息子・直哉と20年振りに会った。大阪梅田の新阪急ホテルのロビーで待っていた。歩いて近づきながら、お互いに親父と息子であることを瞬時に分かった。神戸大学の3年生になっていた。 

 私は志賀直哉が好きだった。1968年に入学すると直ぐに文芸部を立ち上げた。初めての夏休みに四国に帰ると、秋田の六郷に養子に行った御爺さんの弟が遊びに来ていた。彼は字が上手かったので、本堂に掲げる永代経の寄付札に『大谷文藝』と書いて貰い、それを担いで学校に帰っていった。

 母も昔は文学少女だった。1983(s58)年、小林秀雄が死んだ。母は私が小林秀雄のことを大事にしていることを知っていたので、直ぐに電話で私に知らせてきた。

 母も新聞に投稿していた。四国の田舎から何を投稿していたのか。私は、採用薄謝の図書券で、それを知ったのである。





【追 記】

①母が嫁いできた経過

 母は、戦後しばらくして父と見合いし、東京から母の母(祖母)と一緒に四国に嫁いできた。(母は本当は次女であったらしいが、自分が生まれる前に長女は亡くなっていた。また母の父は銀行員であったが、大正時代にスペイン風邪で亡くなり、御爺さんと祖母によって一人っ子のようにして育てられた。嫁いでくるときは、祖母一人になっていたので、木根川の家をたたんで、その祖母を連れて嫁いできたのである。)実家は浄土宗であった。



 見合いは、松本某という人の紹介であった。彼は東大出の長男に母を嫁がせたかったのだが、なぜか急遽、私の父と見合いすることになった。松本某は、私の曾御爺さんの奥さんの出里の人で、当時は職業軍人だった連隊長を辞めて第一生命の軍方面部長をしていた。

 私は知らなかったが、戦争中は兵隊さんの全員が生命保険に入っていたらしい。そうして戦前で一番大きな生命保険会社が第一生命だった。松本某は自分の友達が各処の連隊長をしていたので、その連隊にノコノコと出掛けて行って、連隊の全員を第一生命に加入させたらしい。



 父は本当は医者になりたかった。母と結婚した後で、どこかの医大に行きたかったらしいのだが、食糧事情が悪くなり、また直ぐに兄ができたので、そのままになってしまった。(母は若しかしたら、騙されたと思っているかも知れない。・・これは冗談。)

 戦後の読み物に「リーダーズダイジェスト」という読み物があった。それを、長い間ズッーと購読していて、最新の薬の知識を蓄えていた。

 

 母が病気で市立病院に入院しても中々直らないのを不思議に思って、父は医者が処方した薬を舐めてみた。その薬には重曹を使ってはいけないのに、重曹が入っていた。父は、医者にそのことを指摘して、母は命を取りとめたことがある。父は、私が小さい頃、よくペニシリンを私のお尻に打った。今では、そんなことは出来ないけれど。





②上甲昇先生のことについて

 この上甲昇先生は、飛行機のプロペラの設計ができるほどの優秀な先生で、英文でイギリスの雑誌に投稿していた。ミノルタの一眼レフを持っていた。原稿に添付される写真を「何を使っている?」とイギリスから言うて来たと、日本のカメラの優秀さを誇らしげに語っていた。もちろん写真の現像も教えてくれた。



 丁度この頃、ラジオ用のミニチュア真空管が出来ていたが、私はST管で、並三、高一、5球スーパーを作った。Fuji、エンヤのエンジンを付けたUコン飛行機。グライダー。蒸気エンジン。免許はないが校庭でオートバイにも乗れた。机に固定したガソリンエンジンも自由にかけることが出来た。金属へのメッキも教えてくれた。(私は、科学準備室の床下に、かなりの量の青酸カリがあるのを知っていた。)



 中学生だったが、大人のように扱ってくれた。そして山に行くことも教えてくれた。先生は、毎年夏季休暇を利用して、イタリヤ製の赤い山靴を履いて、四国からわざわざ夏の北アルプスに登っていた。単独で、あるいは奥さんを連れて登るときもあった。奥さんはお琴の先生だった。そのときは古いジャバラ式のカメラを持って行った。軽くてブローニーフィルムが使えるからだと私に説明した。

 私たち兄弟は、この上甲昇先生から沢山の影響を受けた。心から感謝している。 


●私の家族と友達 Ⅱ

 

 

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☆ 母・喬子(たかこ)20才。母は、大正11年に東京都葛飾区木根川に長女として生まれた。本当は先に長女が生まれていたが夭折した。
 また自分が生まれた丁度そのとき、銀行員であった父が大正時代のスペイン風邪で亡くなった。したがって、母は生まれたときから已でに戸主になることが決まっていた。幸い父の父である祖父がまだ元気であったことによって、祖父と母によって何不自由なく育てられたのである。
 祖父は木根川の戸籍課の課長をした人で、渡辺と言った。渡辺のお爺さんは、若いときは相当な放蕩をした人らしく、牛の背中にお金を乗せて遊びに行ったような人だったが、「結局、小役人で落ち着いてしまった」と自嘲気味に言うような人だったらしい。字が比較的上手だったので、荒川放水路の改修か何かで、木根川の墓地が移転したときの、その謂れなどを記したお爺さんの手になる石碑がいまも建っている。学生時代、そういうことを聞いたので、私はその墓地を探し当てて、その石碑を見てきたことがある。

 

 

 

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☆ 母23才ころの写真である。

 

 

 

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☆ 父の見合い写真。大学を出て6ヵ月の初年兵教育を終え、原隊から少尉に任官する間の見習士官である。(したがって階級章は曹長、襟に見習士官を示す徽章。将校用の陸軍正刀帯と胴締を締めている(陸軍の草色のものである)。軍刀と双眼鏡は私物品。短靴に赤革脚絆。この後すぐに砲兵隊の少尉に任官したので、乗馬本分となった。)
 父は戦後昭和20年の冬(?)、東京に上京して母と見合いした。母は木根川の家をすぐ処分し、母の母である祖母を伴って四国の果てまでやってきた。女の人は時として、男にもまして勇気ある決断が出来るものらしい。
 一人で当時の国鉄に掛け合って貨車一両を借り受け、それに嫁入り道具を入れて祖母と一緒にやってきたのである。
『Dinah Shore - Buttons and Bows(ボタンとリボン)』
『松田トシ Bengawan Solo (ブンガワン・ソロ)』 ☆Tuti Trisedya -Bengawan Solo

 

 

 

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☆ 兄・憲雄(s21年12月28日生)が翌年生まれた頃、食料事情は敗戦直後よりもっと悪くなってしまった。
 また一緒に四国にやってきた祖母もまた、木根川の家を処分したお金を貯金封鎖され(s21年3月施行)、その間に新円に切り替えられて貯金の価値はほとんど無くなってしまった(社会事情に明るい人なら、お金を物に代えて保全したかも知れないけれど)。戦後のドサクサ、ほとんどの人が、そういう辛苦を甘受したのであるが、それも仕方のなかったことであろう。
☆『高原の駅よさようなら』 小畑実 https://youtu.be/YpUH4nGQ0ZI

Corelli ☆『帰れソレントへ』

 

 

 

 

 

 

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☆ 昭和19年ころ、第一生命社員とハイキング。(後列向かって左端 23才)
 ここに写っている男性社員の何人かは、のちに戦死している。川は流れる 仲宗根美樹

 

 

 

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☆ 1966年(s41)母45才。古城・三橋美智也
霧島昇・ミス・コロンビア 旅の夜風
『二十四の瞳』  ☆Silvana Mangano.wmv

 
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☆ 同じ1966年(s41)45才。母は犬が好きだったから、子供が連れていた何処かの犬を抱いて写真を撮っている。高橋真梨子『五番街のマリーへ』

 

 

 

 

 

 

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☆ 母23才? この着物はお気に入りだったらしく、昭和40年代まで持っていた。そうして、最後には私の丹前(たんぜん)になって、両腕のついた冬用の上布団になったのだ。
 母と一緒にやってきた祖母は、自分の夫を大正10年にスペイン風邪で亡くした。そのとき、子供を女手一人で大きくしなければならないと悟ったようだ。そのために、創立間も無い「ドレスメーカー」に通って和裁を習得した。大正15年か昭和2~3年ころの事である。
 そうして、自分の家で嫁入り修行の和裁の先生になった。何十人もの嫁入り前の娘たちが習いに来たので、戦争中でも貰い物が多く何不自由なく暮らして来れたようだ。
 その身につけた技術が、今回も役にたった。貯金封鎖によって、手持ちのお金は無くなってしまったが、戦後の、四国の7万人位の街にも『ドレメ』があったのである。祖母は一時、そのドレメの和裁の先生をやったのである。随ぶん後になってまで、呉服屋は上等の袴(はかま)については祖母に頼みに来ていた。そんなわけで、祖母は私が結婚式で着るための仙台平を早くから用意してくれていた。しかし残念だが、私の結婚式は祖母の死からも随分と遅れてしまったのだが。
 祖母は、生粋の下町の人であったから、醤油のことを「おしたし」、火箸のことを「しばし」と言った。これはむしろ訛っていたのかも知れない。95才で亡くなったが、80才を過ぎても「私、英語を習おうかしら」と言ったりした。

 

 

 

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☆ 昭和19年(23才)ころ、職員とのハイキングにて。(左端)
琵琶湖周航の歌
河島英五 時代おくれ

 

●私の家族と友達 Ⅲ





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☆ 教学研鑽のために江戸時代中期より、毎年8月1日から5日に掛けて、高山別院で開催される飛騨学場。前列中央、故・宮城顗(しずか)御講師、『教行信証』『浄土論註』などを多年にわたって講ぜられた。その右隣に、左端より4人目に私。

 先日、三島(真蓮寺)さんの奥さん・絹子さんが亡くなった。傍目に見ても、優れた坊守であり最愛の妻であった絹子さんを失い、眞に声を掛けるのも憚れる。61才であった。

 この写真の中から、已でに何人かが亡くなっている。まことに如来の大悲心成就の相・念仏をもって、一切有情を摂取不捨し給おうとする、その願心に帰依するほかない。



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☆ 東京の「親鸞仏教センター」開所5年目の記念? 前列右端より、高藤法雄・札幌別院輪番、教育部長時代の私、担当参務・下谷泰史議員、本多弘之・仏教センター長(教授)。





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☆ 仙台教務所長・東北別院輪番、41才頃である、中央。支笏湖 ?



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☆ 仙台市国分町にて。



 仙台は宮城県の県庁所在地であり、東北一の100万都市である。真新しい地下鉄も通っていたが、あまり使わなかった。

 東本願寺で会議があるときは、仙台から伊丹に飛んでバスで一時間位であった。所管地域は、宮城県・岩手県・福島県の3県を所管した。

 当時この店は(この頃の時代状況もあって)、建設会社大手、自民党宮城県連、東北大学関係者などが出入りして相当に賑わっていた時代である。

 とくに仙台近くにはゴルフ場が沢山あって、一部上場企業の接待の場として使われていたようである。



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☆ この写真の右から3人目、陸前高田の佐々木広道・当時仙台教区議長(陸前高田市・本称寺住職)。



 陸前高田がやられたと聞いたから、すぐに佐々木さんの携帯電話に掛けてみた。しかし、繋がらなかった。「3,11」から3、4日目、盛岡から宮古を経て北の方から大船渡、陸前高田に近づいた知り合いのボランティアに、佐々木さんの消息を調べて貰った。だが、ボランティア仲間のアマチュア無線の応答では、やはり駄目かも知れないという返事だった。



 本称寺は、町の中心部から右手の山際にあった。この400年の間、災害時にはむしろ避難場所であったはずだから、佐々木さんも恐らく、自分が逃げるなどということは考えたこともなかっただろう。

 中学校の音楽の先生をしておられた奥さんも、若奥さんも、また孫2人も亡くなったおられた。8人家族のうち、5人が亡くなっていかれた。

 私は、残された息子の現住職に未だに電話さえもかけていない。そうして、助かった2人の孫の1人が、亡くなったお婆さんの影響を受けて、トランペットを吹く光景をテレビで見て涙ぐんでいる。










● 私の家族と友達 Ⅳ



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☆ 約20年前の40才、仙台教務所・東北別院にはじめて赴任した。写真は、その年に迎えた初めての報恩講、本堂の後ろに位置している研修室・兼香部屋で少し緊張して出番を待っている。左、本多長生・仙台組長。右、会津選出の諏訪敦雄・副議長。

 所管の教区は宮城県・岩手県・福島県の3県。それぞれかなり遠方にあって、たとえば仙台から盛岡までは新幹線で1時間の距離にある。

 明治時代、仙台市に設置した東北別院の構想は、名称からも分かる通り、いわゆる東北地方(青森・岩手、秋田、山形、宮城、福島の6県)を崇敬下に持つ別院として建てられた。

 しかしそれは、当時の交通事情からして余りにも広大に過ぎ、実際には岩手、宮城、福島を崇敬下とする別院となった。それでも、戦前の別院は立派であった。しかし戦災で消失し、仙台市の中心地にあったために区画整理と移転の憂き目に合った。

 当時の別院には二階建ての寮が併設され、仏道修行とともに東北大学に通う者もいた。向かい正面には憲兵隊もいたが、現在は大きなホテルと錦町公園になった。向かいに定禅寺通を隔てて宮城県庁がある、本町2丁目に当たる。



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☆ 仙台にいた42才頃、北海道を含めた東北連区(奥羽・山形・仙台・三条・東京)の教務所長・兼輪番会議が支笏湖畔で開かれた。支笏湖の美しさは、目を見張るような美しさ、澄んだ水が印象的だった。まだ行ってない人には、ぜひお勧めしたい。(左より三条・生田無等、仙台・私、私の後ろに奥羽・村手淳照、北海道・浅野俊道、東京・海老原溶光、担当参務・稲垣俊一議員、担当組織部長・菊嶋慶雄)



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☆ 仙台の3年を終わって本山に帰った頃(44才?)、同宗連の事務局長になった。その研修に、勝手知ったる沖縄研修を行なった。沖縄は、特殊な地域だ。

 「焼き捨てられた日の丸」事件として良く知られる、読谷村の知花昌一氏にも来てもらい、その辺の事情を聞いてみた。

 彼が言うには、『1972年(昭和47)5月15日の沖縄本土復帰の日までは、「日の丸」の旗は日本復帰の希望の旗、もちろん知花昌一も先頭に立って「日の丸」を振った』そうだ。その「日の丸」の旗を、今でも押入れに、入れていると言う。

 何が彼をして「日の丸」を焼き捨てさせたのか? 本土復帰に心を込めた願いと、復帰が適った現実との乖離、焦燥とでも言うしかない。その時の若い青年の心を静かに語ってくれて、各教団からの参会者の心を打ったことを、いまも思い出している。

 写真は、その研修会を行なった際に同道した三浦崇・担当参務。後に、若くして宗務総長になられたが、教団内諸事情で短命な内局となったことが惜しまれる。(南風原か、どこかの壕の跡に立っている)



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☆ 東本願寺の別邸「枳殼邸」にて、菊嶋慶雄組織部長と。43才。



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☆ 就任間近かの時期、職員のレクレーションに同行された御門首夫妻と昼食に同席。向かいの席は高浜純雄筆頭参務。すでに故人となられてしまったが、温厚篤実な方で有力な宗務総長候補でもあった。



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☆ 同宗連に加盟する教団の担当者、年末の忘年会である。

 毎月東京に会合し、議員会館を訪ねて要請を行なった各教団担当者である。それぞれに教団事情を抱えた中、並大抵の苦労ではなかったであろう。皆、苦労をした仲間のように心を通わせることが出来た事が幸せであった。前列左端



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☆ 世界で始めて、人権問題に関するマイノリテイーの世界会議が開催された。(ニューヨークにて)

 夕食は韓国の活動家の縁で、韓国料理屋に招待されている。右に私、その並びに武者小路公秀氏が見える。



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☆ 同じニューヨーク会議に出席した、同企連の担当者。

 彼らは企業の人、やはり語学ができた。優秀な人もいたようだったが、一般上場企業の担当者である。彼らもまた退役しているだろうが、今は何をしているのだろうか。



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☆ 2009年6月、青島。

 私たちは毎年この時期、中国に旅行している。2007年は敦煌。2008年は雲崗石窟と五台山、玄忠寺。今年2009年は青島、孔子の生まれた曲阜。泰山に登って北京、天津への旅行を行なった。

 この場所は山東省の青島、正面海岸に位置する桟橋のように海に突き出た観光名所。

 青島は海岸に面しているから、暖かった。(おまけに、夕食に刺身が出てきてビックリしたが。)ドイツ租界の影響で少しだけヨーロッパ風と言えるだろうか。中国人が住みたい町(上海・北京・青島・天津)の一つである。

 日清戦争時の、両江総督・李鴻章の北洋艦隊根拠地であった威海衛は、この半島の先の渤海湾に面した処にあるが、そこまでは行けなかった。遼東半島の大連までは、高速船で3時間位でなかろうか?



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☆ 曲阜(孔子の生まれた処という)の岱廟(たいびょう)前? 儒教の故郷である。

 若くて60半ば、70代の女性の旅行参加者に囲まれて、照れている。 孔子の位牌が安置されており、丁度その位牌を仏教寺院の本尊のように礼拝参拝する。


●私の家族と友達 Ⅴ

 

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☆ 2011年3月~5月にかけて、私たち真宗大谷派(東本願寺)は『親鸞聖人750回御遠忌法要』を勤める予定であった。しかし3月11日「東日本大震災」が起こって、3月の法要は追弔法会の形で勤め ことになった。

  写真はその2カ月後、いよいよ私たちが御遠忌参拝する25日の前日24日、親鸞聖人の誕生された日野法界寺にお参いりし、次に宇治「平等院鳳凰堂」にお参りして記念に一枚ということで。 (2011,5,24)

 

 

 
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 ☆ 2010年お盆前の清掃奉仕 70人位か?  去年の清掃奉仕は沢山集まったので、このように記念写真を撮ったのだが、今年2011年にはまた昨年よりも随分多く集まった。写真も撮らず、数も正確には数えなかったが、80人を超えていただろうと思う。また、若い人たちも沢山入ってきたようで、嬉しく思ったことである。

 

 

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 ☆ 中国の浄土教寺院の塀には、よく「南無阿弥陀仏」と書いてある。日本でも、この点については、見習っても良いのではなかろうかと思う。(北京にて)

 

 

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☆ 「北京~天津」間の新幹線、和諧号の室内。

  日本の東北新幹線の車両を中国独自に改良したと言い、時速323キロを出している。 私もまたつい最近、日本の東北新幹線に乗ってみたが、確かにこれまでの大阪~東京間を走っている新幹線よりは、揺れが少なかったように思う。

 

 その東北新幹線を下敷きに、中国が独自に技術改良したのだから、もはや中国の技術の方が上回っていると言っていたのだが。

 

  しかし今度の中国高速鉄道の追突事故によって、中国の技術は抜本的な見直しが迫られており、日本人観光客もまた今のところは、中国の新幹線には乗りたくはない。(中国高速鉄道の安 全が確保されるまでは)

 

 

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☆ 本堂前の駐車場で、バーベキュー大会を開いてみた。案外好評で、来年もまた是非やりたいという人も多いのだが、準備と後片付けが大変だと、若い人たちは言う。

 

 

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☆   そのバーベキュー大会に参加した子供たちに、まず本堂に参ってからと言ってみたら、こんな風な調子で気持ちよく参ってくれた。

 そうして、大人になったときにも、あのバーベキューの時には本堂に参った、ということを覚えているかなー。子供は、素直で良いね。

 

 

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☆  秋の頃の白川郷合掌村。

   白川村には大谷派の明善寺という寺がある。12/31の除夜の鐘のとき、ときどき出てくる寺がそうだ。白川には、聖人の存命中に嘉念坊善俊上人という人が真宗を布教し、また蓮如上人のとき、改めて真宗が布教され、その因縁によって白川・飛騨地方には多数の真宗寺院が建立さ れた。

    後に高山別院ともなる「照蓮寺」は、白川の中野という処にあった。秀吉の部下であった金森長近が高山に城を構えたとき、照蓮寺もまた高山の現在地に移転したのである。 

 

 

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☆ 鎌倉の大仏。

    奈良の大仏は、「華厳経」の中に出てくる盧舎那仏(るしゃなぶつ)という仏さまだ。 しかし、鎌倉の大仏がある寺は、浄土宗の寺であるから、阿弥陀さまに間違いない。にわかに親しみが沸いてきて、露座の大仏のお腹の中に入ってみた。お腹の中は夕日を受けて、少し暖かかった。 阿弥陀さまは、いつもホットするような仏様なのだろう。

 

 

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☆ 2011年、蘇州「寒山寺」の鐘楼堂。

  私が持っていた寒山寺のイメージは、「月落烏啼霜満天 江楓漁火對愁眠 姑蘇城外寒山寺夜半鐘聲到客船」の詩の通りである。人によって感じ方は別なのだろうが、私はそれを、水辺の近くの少し小高い山の上に位置しているはずだと、ずっと寒山寺のイメージを思い描いていた。

 しかし実際の寒山寺は、蘇州の街なかにある大寺院であった。

 

 

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☆ 寒山寺の鐘。お釈迦さまの像が背後に見える。

 

 

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☆ 新しく出来上がった、「楓橋夜泊」の碑文である。

 

 

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 ☆  2011年の中国旅行は、急遽8人で上海・烏鎮・蘇州を回ることにした。そうして、私はその中心に蘇州の寒山寺をぜひ訪ねてみたいと思っていた。

 

 

 

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☆ 清朝時代の古い街並を残している烏鎮(uchin)。運河沿いの古い街並や通りが綺麗。そうして、少し赴きのあるホテルなどがあって、上海の人たちが遊びに来ている。

 

 

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☆ 烏鎮  夜間に照明を受けて浮かび上がる運河沿いの街並は幻想的である。上海から近いので、そのうち日本人も沢山行くようになるだろう。

 

 

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☆ 烏鎮

 

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☆ 2009年 【泰山山頂に向かう】秦の始皇帝が天を祭った、道教の「封禅」という儀式が行われたことで有名である。孔子の生まれた曲阜に一泊して、あくる日に山頂に向かった。1,545mの高さがあるそうだが、途中まではケーブルカーで登る。(山東省泰安市)

 

 

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☆ 2009年【泰山山頂近く】 石壁に刻された多くの書を見ていると、さすがに中国だと感じられる。

 

 

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☆ 五台山「大顕通寺」の正面・金色堂と、左右二つの阿弥陀堂。阿弥陀堂は白く塗られた御堂である。のちに比叡山天台座主になる円仁は、この写真の左手前奥にある禅堂と、この二つの阿弥陀堂で念仏を実践している様を見て、帰朝後すぐ比叡山に念仏の『常行三昧堂』を設置したのだろう。

 

  そうだとすれば、比叡山での念仏実践は、法華経を中心とした本来の天台宗の修行とともに、土教の実践である口称念仏との併修は、親鸞聖人が比叡山に登られた時代より、300年も前から行っていたことになる。

 

   法然上人も親鸞聖人も、この比叡山での自力と他力の併修の問題に悩まれ、ついには専修念仏の世界に到達されたのであろう。私は、この五台山大顕通寺での禅堂と阿弥陀堂の併立を実際に見ることができて、大いに感じるところがありました。

 

 

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☆ 2011年7月19日 およそ4カ月後の宮城県女川市の震災・つなみ被災地