できないことをできるようにしたい。わからないことはわかるようになりたい。誰しもがあらゆる場面でそう思っている。
できること、わかることはいいことでも悪いことでもない。ただ、それが人間の条件なのだろうか。生きる価値なんだろうか。
どうしようもないほどの苦しみ、たとえば親しい人との別れ、たとえば老い、たとえば癌のような治らない病気など、人々は生きながらたくさんの苦を体験する。できれば避けたい。できれば乗り越えたいと思うのは当たり前のことだ。そのために、あらゆるてをつくす。典型的な手段の例が病院だ。手なづけることは自信になる。私はどんな苦しみも自分の手でなんとかできるぞと。難しい言葉を言えばそれは自己統治だ。
だが、それでも飼い慣らせない苦しみに出会ったとき私たちに何ができるか。何もできないのだ。できないとわかった瞬間の苦しみは、積み重なってまた新たな苦しみとなる。それはたとえば情動のようなものでかふっと湧き上がってくる。それが、自己統治できる私と、できない私の間の空白を生み、私たちに遅れの感覚をきせるのだ。
統御できる自分、できない自分の間の空白を見つめてみる。するとなんだかグレーな自分が目に見えてくる。できる、できない。わかる、わからないの二分法はおそらくわかりやすい。だが、全くできなかったり、全くわからないわけではないだろう。ほんのほんの少しでもわかっているし、できている。
それは限りなく黒に近いグレーだ。あるいは黒と白が同時に存在しているのかもしれない。
私たちは白と黒の極に立っているのではない。その淡いを生きている。淡いに生きている限り、それはできるとできない、わかるとわからないが限りなく判断できない。そんな世界だからこそ、できなければ人間の条件がなくなるほどの苦しみを背負うというのは間違いなのだ。それはわかりやすい白と黒の世界の認識の話である。
だが、生きるのとはものすごく矛盾に満ちたちぐはぐでグレーで、白黒のあべこべな世界の実践である。生きている、ただこの実践に従え。
できること、わかることはいいことでも悪いことでもない。ただ、それが人間の条件なのだろうか。生きる価値なんだろうか。
どうしようもないほどの苦しみ、たとえば親しい人との別れ、たとえば老い、たとえば癌のような治らない病気など、人々は生きながらたくさんの苦を体験する。できれば避けたい。できれば乗り越えたいと思うのは当たり前のことだ。そのために、あらゆるてをつくす。典型的な手段の例が病院だ。手なづけることは自信になる。私はどんな苦しみも自分の手でなんとかできるぞと。難しい言葉を言えばそれは自己統治だ。
だが、それでも飼い慣らせない苦しみに出会ったとき私たちに何ができるか。何もできないのだ。できないとわかった瞬間の苦しみは、積み重なってまた新たな苦しみとなる。それはたとえば情動のようなものでかふっと湧き上がってくる。それが、自己統治できる私と、できない私の間の空白を生み、私たちに遅れの感覚をきせるのだ。
統御できる自分、できない自分の間の空白を見つめてみる。するとなんだかグレーな自分が目に見えてくる。できる、できない。わかる、わからないの二分法はおそらくわかりやすい。だが、全くできなかったり、全くわからないわけではないだろう。ほんのほんの少しでもわかっているし、できている。
それは限りなく黒に近いグレーだ。あるいは黒と白が同時に存在しているのかもしれない。
私たちは白と黒の極に立っているのではない。その淡いを生きている。淡いに生きている限り、それはできるとできない、わかるとわからないが限りなく判断できない。そんな世界だからこそ、できなければ人間の条件がなくなるほどの苦しみを背負うというのは間違いなのだ。それはわかりやすい白と黒の世界の認識の話である。
だが、生きるのとはものすごく矛盾に満ちたちぐはぐでグレーで、白黒のあべこべな世界の実践である。生きている、ただこの実践に従え。