
夕べから降り続いていたというみぞれ混じりの冷たい雨が止んで、浅草の空は青く澄み渡っていた。
おかげで、新大阪駅のキオスクで買ったビニール傘は結局一度も開かないまま、コンビニの傘立てに寄付することになった。
相変わらず観光客と、修学旅行生と、商売上手なおばちゃんたちであふれかえった町の賑わいが、何か誇らしく思えてつい頬がゆるむ。
雷門の長押の出っ張りにちょこんと乗っかった人懐っこい猫が、元気に挨拶してくれた。
ただいま。
ていうか、あなたは、私がここに住んでいた頃はまだ生まれてないね、きっと。
笑みがこぼれそうになる。
でも、実家へ向かう私の足取りは重かった。
3日前突然、母が死んだ、と兄から連絡が入った。
父は兄と私が幼い頃、工場の事故で亡くなっていて、私は顔も覚えていない。それ以来、母が一杯飲み屋を切り盛りしながら、女手一つで私たちを育ててくれたのだ。
とても優しい母だったが、私は彼女の匂いだけは好きになれなかった。
母は仕事が終わると、先に布団に入っていた私の隣にそっと潜り込む。そして必ず、一日の終わりの儀式のように、大きな大きなため息をつくのだ。
そのとき、私をあの匂いが包み込む――彼女の身体に染みついた、お酒の匂いが。

兄とは小さい頃は仲が良かったが、彼は高校を卒業してから、就職がうまくいかず、アルバイトを転々とするうちに酒に浸るようになり、成人式を迎える頃には立派なアルコール依存症患者が出来上がっていた。
その頃の私は、突然わめき散らして手当たり次第に物を投げつける兄が怖かった。そして兄からは、私の嫌いなあの匂いがいつもただよっていた。
ある夜、私は勇気をふるって、母に金をせびる兄を咎めた。兄は無言で私の髪をつかむと、壁に叩きつけた。とっさに手で顔をかばったが、爪があたって唇が小さく裂けた。
頭に血が上った私は、側にあった兄のデスクトップ型パソコンをケーブルを引きちぎって高く振り上げ、そのまま彼の頭めがけて振り下ろした。
救急車で病院に運ばれた兄が家に帰ってきた頃には、私は家を飛び出していた。
仕事を転々としながら、いつしか私は大阪にたどりつき、今ではミナミで自分の店を持っている。
家を出てからの私は、それまでの自分からは考えられない大胆な女になった。運も良かったし、自分は自分で思っていた以上に、生き方が器用だったんだと思う。
「……お兄ちゃん、どうするんだろうねぇ」
まっすぐ家に戻るのが躊躇われた私は、昔なじみのお団子屋に寄り道したのだが、昔と変わらぬ笑顔で迎えてくれた店のおばあちゃんは、私が戻ってきた事情を知ると、そう言って顔を曇らせた。
そう言いながら私を見つめたおばあちゃんの目から、彼女が心配しているのが兄ではなく私のことだとすぐわかった。
きちんとした仕事についていないアル中の兄と、一国一城の主である妹。
私に負担がかかるのではないか、おばあちゃんはそう思ってくれているのだ。
でも、それに気づいたとき、むしろ私の気持ちは軽やかになった。
そうだ、今の私は、兄を助けてあげられる。というより、兄の運命は私が握っているも同然ではないか。
暴れる兄におびえていた昔の自分のことを思い出すと、私は何か復讐の切り札を手に入れた気がして嬉しくなった。
私の勝ちだ。今度こそ本当に笑みがこぼれて、団子屋のおばあちゃんに怪訝な顔をされた。

それでも、入り口に閂が掛けられた母の店の前に立つと、急にネガティブな現実をつきつけられたかのように、気分が萎えた。
母には申し訳ないことをした。
母は、兄に内緒で一度、大阪の店に突然現れたことがある。ずいぶん小さく見えた。お酒も控えていると言っていた。
私は、「ごめん」としか言えなかったが、母は責めもせず、決して上品ではない私の店のことにも触れず、お土産のお煎餅と、昔お祭りのときに作ってもらっていたのと同じ縁起札を置いて去っていった。
縁起札には私の名前と、どうして調べたものか、店の名前が彫り込まれていた。
カバンから取り出した縁起札を見つめながら、私はこれから口にしなければいけない言葉を考えた。すぐに思いつかなかった。
「ただいま」
そう、ただいま。それでいいんじゃない。たぶん。
私は深呼吸をして、大きなため息をひとつついた。
あの頃の母と同じ匂いがした。
作/吉田彩香 脚色/zima
この物語はフィクションです。
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