僕も31歳だ。
運良く、童貞ではない。
童貞じゃなくて、本当に良かったーとか割とマジで考えている。
少なくとも、あの屈辱的感情から少しだけ自由になれている気がするからだ。
どーんなに貶されようが、馬鹿にされようが、見下されようが、「でも、童貞ではない」というただの一事実に、自分のちっぽけな矜持を持つことができるのだ。
酷い。酷過ぎる。
こんなことで自分への価値観が左右されるなんて。
べつに童貞が悪いとか、非童貞が良いとか、そんな話をするつもりはない。
ただなんか、その凄まじい呪縛の力に戦慄するのだ。
異性(べつに同性でもいいけど)に自分がセックスの対象とされない。自分の欲望が受け入れられることがない。(セックスの対象にされても、自分の欲望が受け入れてもらえない人もいるが、話が複雑になるので、置く)
これは容易に「自分に価値がないのではないか」という思いへと飛躍する。
飛躍させずに安定を保っていられるとしたら、それはすごい人だ。
「自分が性的に受け入れられたことがない」ことに「ま、それでもいいか」と静かに捉え、周囲の好奇の視線にさらされても平気。他人を羨むこともしない。卑屈にもならない。自信を失うこともない。
そんな人だったら、すごい。
だが多くの人はそうすごいわけではない。
「自分に魅力がないのか?」「周囲に見る目がないのか?」などなど、理由を求め始める。
「いや、自分はそもそもそんなものは求めていないのだ」と言うことだってできる。
でも、周囲はそうは見ない。
「どうせ無理してんだろ?」というあからさまな視線を浴びせてくる。
屈辱だ。屈辱以外ない。
金を払って事実だけを買うか?どうでもいい相手に自らを売るか?
そんなことをしたって何も埋まらないのは分かりきっている。
でも、セックスへの自分のスタンスを毎回表明しなければならないのは、地獄の苦痛だ。極めて個人的な領域のことだからだ。
これ、どうしたらいいのだろうか。
自分が欲しいのはなんなのか。
肯定か。
自分が存在していて良い。存在していて欲しい。そういった声か。
自殺でもちらつかせるか?みんな止めてくれるだろう。
いやいや、分かっている。そんなことは。そして馬鹿げている。
きっと実感なのだろう。
実感が欲しい。
通りいっぺんの言葉じゃなくて、感覚として自己をまるごと肯定して欲しいのだ。
そして、それは自分の未だ経験したことのない領域に隠されているのではないか。
そういう思いだ。
だが、こんな思いは「子供じみている」と断じられるだろう。
その通り。
そんな自分だけのエゴで、実感を得ることなど出来ない。
他人に、相手に、なにを与えられるか、与えようと出来るか、なのだ。
だって、何も与えない、与えようとしない人を、誰が必要とするだろうか?
誰が肯定するだろうか?母親か?
これはテクニックじゃない。
どんなにハウツー本も読んだって、「テクニックで人をなんとかしようとしている」時点で、なんか違和感があるんじゃないのか。
自分を飾るか?偽るか?だが、それで受け入れられるのは、自分じゃないだろう。
モテようが、モテまいが、本当はどうでもいいんじゃないのか。
嫉妬の矛先は、最終的にいつも自分だ。自分から目が離せない。
低劣な、本当は価値があるはずの自分から。
特に多くの男は、このへんがいつも不安定だ。
女はどうなのかな。
