その女は、いつも窓を向いている

窓を向いて、何か少し黄色みがかった透明のグラスを傾けている

グラスの中で、小さな気泡が踊っている

四角い氷の周りにまとりつくように、泡が舞っている

グラスに取っ手はなく、真っ直ぐな円柱で、ガラスは薄い

女の指と手のひらが、グラスの半分を覆うくらいの大きさ

女は、グラスを傾けては一口、口を湿らせ、グラスを戻し、また傾けて一口、口に含む


視線の先は、取り立てて変わり映えのない人の往来

駅直通の地下街を、12月中旬の寒さに抗うように着込んだ人々が行き交う

ダウン、フリース、コート、ジャケット、革ジャン、

黒が4割、グレー、ベージュが3割、白が2割、カーキ、茶色が1割、

1人が3割、2人連れが6割、4〜5人以上の塊が1割、

マスクをしている人が2割、していない人が8割、

といったところか


取り立てて何か目に付くものもない人の往来を、

ただ女は眺めている

一口、一口とグラスを傾け、その顔には何の感情も読み取れない

時折、思いついたように、テーブルに置いたボールペンで

手帳に何かを書き留める

ボールペンを動かすその顔にも、特に感情は読み取れない

ただ、ペンが止まったとき、口角が微かに上を向く

少しだけ、柔らかい表情になる

そしてまた、窓に顔を向ける


女がいる店内は、8割方席が埋まっていて、大きい声は聞こえないものの、会話を楽しむ声であふれている

女のように一人の客が3割、2人連れが5割、3人以上のグループが2割

女は、窓の方を向きながら、近くのテーブルの会話を聞いている


えーここってこの時間こういうメニューになっちゃうんだ

私はコーヒーとかこういうのがいい

あの人ってあれじゃん

それもさぁー

それってさぁー

いやどうだろね

そうだねそうだね

そうなんだ

あーそっちね

でもまあ、それも気の毒よね

かわいそうではあるよね

今思うとそれって

だからそうなんだよ

私言ってたよね

私言ったんだけど

だから言ったじゃん


この狭い島国で、こんなにも使う言語が違うのか

わたしは人生で、こんな会話をしたことがあっただろうか

こんな会話を楽しいと感じる時代が、果たしてあっただろうか

会社員時代?家族と話すとき?

記憶にはないが、気づいてないだけで、

隣の彼女たちと同じ表情で、同じ声で、同じ言葉で、

会話をしていたことが、あったかもしれない


あったとすると、何が楽しかったんだろうか

むしろ、他に楽しみが無かったのだろうか


そもそも、わたし自身の楽しみとはなんだろうか

お酒を飲んで、気の合う人と、会話を楽しむ

これといってウィットに富んだ話ができるわけでもない

ウィットって、そういえば誰かが口にするのを聞いたことがない

そういえば、小中学生のときは、図書館に入り浸って、

小説によく出てくる誰もが知っている作品を

知っておきたいと思い、

ハムレットを読んだりしていた


その頃に江戸川乱歩も読んで、その少し首筋が寒くなるような、どろどろとした日本ならではの怖さと

ミステリーの面白さに惹かれ、

江戸川乱歩はエドガー・アラン・ポーから来ているということに気づいたのは

20代後半になってからで、

エドガー・アラン・ポーの作品を引用したミステリー小説にはまり、

エドガー・アラン・ポーの原作を探し、

最初に見つけた本が面白かったからと、

他にも探してポー全集を購入し、

ストレートに翻訳された本は言い回しも堅く古風で、

世界に没入するにはハードルが高く、

全く読み進められず、1話も読み終えられないで、

ブックカバーが付いたまま本棚に横たわっている


ミステリーの話を誰かとしたことはない

ミステリ好き、とか、この作家のファン、という人と

話が合う気がしない

好きだが、いわゆるマニアやおたくのように

突き抜けることができない

それだけを語り尽くす人種と対面するのが怖い

好きなものを語る習慣がない

むしろ、自分が好きなものを他人に語ってほしくない

とても長く好きなアーティストでも、

そのファンと話したいと思わない

好きな小説の後ろについている解説が読めない

読みたくない

自分の解釈を壊されたくない

興味がない人に対しては話せる

ファンを自称する人の話は聞けない、イライラする

家族ほどに近い人としか、一緒に趣味を楽しめない

大人数なんてもってのほか、気がしれない

疲れるだけだ

せっかく楽しいことのはずなのにと思うと

より一層腹が立つ

この考えに共感できる人はいるのだろうか

そもそも誰かと話したくないのに、共感など得られるはずがない


ただそんなことを、グラスを傾けながら

窓の外を眺めながら、考えている


時折、ああそういうことかと思考がまとまると

手元の手帳に書き留め、少し満足する


そういう時間がひとときの幸せだと、女は思っている