今日は、日本のあちこちで終戦記念日として平和の祈りを捧げる日となったでしょう。一部の人にとっては、終戦はさらに数十年後だったのですが。
私自身、戦後生まれの人間なので、戦争というものがどれほどのものであったか想像することしかできません。
ただ、戦争の真実に触れる機会があった最後の世代なのかもしれません。
私の幼少の頃は、まだ戦後復興の真っ只中だったように感じました。実際に戦争に直接触れるあるものが、祖父母の家にありました。
それは、戦没者のお墓です。
祖父母の家の敷地内には、戦争で亡くなった引き取り手のいない名も無き日本兵の遺骨を埋葬した塚があり、私は物心ついた頃から何の違和感もなく…疑問も抱くことなく、その塚に手を合わせていました。
祖父母の家に行ったら、まず、家の中にある仏壇に手を合わせて…その後、敷地内にあったお墓に手を合わせていました。
竹藪の木漏れ日の柔らかい光の中お線香の煙を燻らせていました。
時には、竹の葉をほうきで掃いて綺麗にしたり、暑い日にはお水を汲んできて入れ物に入れてみんなで飲んでねと。
その塚は、祖父が戦地で亡くなった引き取り手のいない日本兵の遺骨を持ち帰って弔いのために作ったものだということは、小学4年生くらいの時に知りました。
私の父方の祖父母は、戦争のことはあまり話しをしませんでした。
ただ一言、戦争は何一つ良いことはないと。命より大切なものはないと。
その後、特攻基地(資料館)を訪れることがあり、零戦のレプリカに思わず「カッコいい」と言ったのを覚えています。
それは、決してかっこいいものではないということは、次の瞬間わかりました。
資料館の中に入ると無数の特攻兵たちの手紙や写真を見た時、声を失いました。
そこにあった写真はどれも凛々しく笑みすら浮かべているものでした。今から、死に行くのになんで、そんな笑顔で居られるのかわかりませんでした。
手紙を見て、その理由がわかりました。
そこには、誰一人、御国のためとか天皇陛下の名誉のためにというものはいませんでした。
当時は、身内に当てた手紙ですら検閲兵による検閲があって、真実を語ることもはばかれた時代。
いよいよ、死に行く時にどうしても真実を伝えたいと思った特攻兵たちは、自分たちの世話をしてくれていた特攻兵の母と慕われたある女性に手紙を託して戦地の空へと散っていったのです。
資料館にあったのは、その本音を綴った手紙でした。
そこには、家族や親・兄妹たちの行く末を案じ、自分が犠牲になることで平穏に暮らせるようにと願うものでした。
多くの特攻兵は、日本に勝ち目がないことを知りつつ、死に行きました。
特攻兵たちは、出陣する前日の最期の晩餐は、当時としては大変貴重な白米が振る舞われたそうです。
あと、タバコと少量のお酒。
普通の生活の中では、口にすることができなかったであろうものたち。
あと、印象的だったのは、一人一人の決意を記し、血判が押された日章旗でした。
天皇陛下 万歳
御国のため
愛国心
など、天皇陛下の名誉と国を守るための言葉が散りばめられていました。
「立派に死んできます」と。
立派に死ぬってどういうこと?
自分の天命を全うすることだけが立派な死なのではないのでしょうか?
誰もが希望を持って、夢を描いていた。
しかし、戦争によって…権威、権力を持つ者たちの希望を優先した結果、未来を殺した。…それが、戦争です。
祖父母の家の敷地内にあった戦没者のお墓は、数年後に弔い上げされました。
弔い上げの神事が行われている1週間、金縛りにあいました。
その時に見た光景は、日本兵たちが隊列を作って近づいてきて、「ありがとうございました!」と、一言告げると敬礼して来た道をまた戻るというものでした。
怖いというより不思議な気持ちでした。
戦後も父をはじめ戦時中を生き延びた人達が、戦時中にできなかった、見果てぬ夢を朝まで語り合っていました…うちの家によく集まっていました。
今では、遠い思い出ですが。。。
https://youtu.be/4VYuzNJZ1vc
(YouTubeより拾ってきました)
私自身、戦後生まれの人間なので、戦争というものがどれほどのものであったか想像することしかできません。
ただ、戦争の真実に触れる機会があった最後の世代なのかもしれません。
私の幼少の頃は、まだ戦後復興の真っ只中だったように感じました。実際に戦争に直接触れるあるものが、祖父母の家にありました。
それは、戦没者のお墓です。
祖父母の家の敷地内には、戦争で亡くなった引き取り手のいない名も無き日本兵の遺骨を埋葬した塚があり、私は物心ついた頃から何の違和感もなく…疑問も抱くことなく、その塚に手を合わせていました。
祖父母の家に行ったら、まず、家の中にある仏壇に手を合わせて…その後、敷地内にあったお墓に手を合わせていました。
竹藪の木漏れ日の柔らかい光の中お線香の煙を燻らせていました。
時には、竹の葉をほうきで掃いて綺麗にしたり、暑い日にはお水を汲んできて入れ物に入れてみんなで飲んでねと。
その塚は、祖父が戦地で亡くなった引き取り手のいない日本兵の遺骨を持ち帰って弔いのために作ったものだということは、小学4年生くらいの時に知りました。
私の父方の祖父母は、戦争のことはあまり話しをしませんでした。
ただ一言、戦争は何一つ良いことはないと。命より大切なものはないと。
その後、特攻基地(資料館)を訪れることがあり、零戦のレプリカに思わず「カッコいい」と言ったのを覚えています。
それは、決してかっこいいものではないということは、次の瞬間わかりました。
資料館の中に入ると無数の特攻兵たちの手紙や写真を見た時、声を失いました。
そこにあった写真はどれも凛々しく笑みすら浮かべているものでした。今から、死に行くのになんで、そんな笑顔で居られるのかわかりませんでした。
手紙を見て、その理由がわかりました。
そこには、誰一人、御国のためとか天皇陛下の名誉のためにというものはいませんでした。
当時は、身内に当てた手紙ですら検閲兵による検閲があって、真実を語ることもはばかれた時代。
いよいよ、死に行く時にどうしても真実を伝えたいと思った特攻兵たちは、自分たちの世話をしてくれていた特攻兵の母と慕われたある女性に手紙を託して戦地の空へと散っていったのです。
資料館にあったのは、その本音を綴った手紙でした。
そこには、家族や親・兄妹たちの行く末を案じ、自分が犠牲になることで平穏に暮らせるようにと願うものでした。
多くの特攻兵は、日本に勝ち目がないことを知りつつ、死に行きました。
特攻兵たちは、出陣する前日の最期の晩餐は、当時としては大変貴重な白米が振る舞われたそうです。
あと、タバコと少量のお酒。
普通の生活の中では、口にすることができなかったであろうものたち。
あと、印象的だったのは、一人一人の決意を記し、血判が押された日章旗でした。
天皇陛下 万歳
御国のため
愛国心
など、天皇陛下の名誉と国を守るための言葉が散りばめられていました。
「立派に死んできます」と。
立派に死ぬってどういうこと?
自分の天命を全うすることだけが立派な死なのではないのでしょうか?
誰もが希望を持って、夢を描いていた。
しかし、戦争によって…権威、権力を持つ者たちの希望を優先した結果、未来を殺した。…それが、戦争です。
祖父母の家の敷地内にあった戦没者のお墓は、数年後に弔い上げされました。
弔い上げの神事が行われている1週間、金縛りにあいました。
その時に見た光景は、日本兵たちが隊列を作って近づいてきて、「ありがとうございました!」と、一言告げると敬礼して来た道をまた戻るというものでした。
怖いというより不思議な気持ちでした。
戦後も父をはじめ戦時中を生き延びた人達が、戦時中にできなかった、見果てぬ夢を朝まで語り合っていました…うちの家によく集まっていました。
今では、遠い思い出ですが。。。
https://youtu.be/4VYuzNJZ1vc
(YouTubeより拾ってきました)