ヴァーン-ミッケルセンことアーリルド-ヴァーナー-アグレスコフ-ミッケルセンは、ミネソタ州セントポールのハンライン大学に進学し、4年目のシーズンには平均17.3得点、フィールドゴール成功率53.8%を記録する、カレッジ界を代表する選手に成長した。大学卒業後、1949年のBAAドラフトにエントリーしたミッケルセンは、ミネソタ州ミネアポリスのチーム、ミネアポリス-レイカーズから地域ドラフト(当時は1巡目指名を放棄するかわりに地元選手を指名できた)による指名を受け、NBA入り(この年からBAAはNBAと改称した)を果たした。
当時のレイカーズはセンターのジョージ-マイカン、フォワードのジム-ポラードを擁するリーグ屈指の強豪チームだったが、ここにさらにミッケルセンが加わることによって自慢のフロントラインがさらに強化され、他を寄せ付けない強さを見せるようになった。
ミッケルセンは1年目の1949-50シーズンから全68試合に出場し、平均11.6得点を記録。チームも51勝17敗という好成績を記録し、プレーオフも勝ち抜いてファイナルに進出。シラキュース-ナショナルズを破って優勝を果たした。翌シーズンにミッケルセンはさらなる成長を見せ、14.1得点10.2リバウンドのダブル-ダブルを記録し、オールNBA2ndチームにも初選出された。しかしチームはポラードの故障などで前季よりもやや勝率を落とし、プレーオフでも途中敗退となった。翌1951-52シーズンにはポラードが復活し、ミッケルセンも15.3得点10.3リバウンドの好成績を維持、チームはプレーオフを勝ち抜いてファイナルに進出し、ニューヨーク-ニックスと対決。第5戦ではポラードが背中の故障で欠場するというアクシデントに見舞われたが、ミッケルセンとマイカンがそれぞれ32得点をあげるという活躍をみせ、ニックスを破った。シリーズは最終第7戦までもつれたが、第7戦を82-65でレイカーズが勝利し、ミッケルセンは2度目の優勝を遂げた。レイカーズはこの年を皮切りにNBA初となる三連覇を達成し、ミッケルセンはNBAキャリアの中で計4つのチャンピオンリングを手に入れることになった。