みなさんは
奇跡的な嬉しい出来事って
よく起こりますか?
あまり起こりませんか?
この質問に即答かつ自信満々で
「私の人生には
嬉しい奇跡が
沢山起こっている」
自然と、こんな風に答える。
そうなれば、自然と嬉しい奇跡が連続して起こります。
今あなたは
スマートフォンやパソコンの画面から
アメブロ読んで
しろろの不思議な思想を知り得ています。
この時点で既に奇跡なのです✨
インターネットが今のように普及して
アメブロ気軽に書いたり読んだり
そんな文化が成り立っているのは
せいぜい20年〜30年の間の話なのです。
あなたの親御さんは、生きて元気でいらっしゃるなら今からスマホ使いこなせばアメブロ読めるかもしれませんが
おじいちゃんとかおばあちゃんは高確率で難しいし、ひいおじいちゃんとかひいおばあちゃんだったらアメブロ読んで他の人の考えとか体験談を共有する機会は基本的に無いと思います。
産まれてくる世代が
一世代か二世代違うだけで
情報の収集だけでも、そんな違いが出ます。
そしてインターネットだけではなく
様々なサービスやインフラが高速化して便利になっています。治安や衛生面においても、あらゆる時代の、あらゆる場所に比べて、恵まれている、と言えるでしょう。
つまり奇跡は既に起きているのです。
だから、今から先の未来も全て奇跡で溢れているのです。
悲しいこともあります。胸が張り裂けそうな出来事も、叫びたくなるほどの衝動を感じたり、言い知れない感情に胸をザワつかせる夜もあるでしょう。
でも、それらが全て嬉しい奇跡的な展開に繋がっているのです。そのストーリーは自分自身で決めることが出来る。
逆に、くだらないストーリーにしてしまって、苦労が苦労のままで終わる展開も、悲しみがいつまでも癒えない展開も、全て自由に創り出すことが出来るのです。
それは、どんな前提で、どういう認識で物事を捉えるか。
違いは、たった、それだけです。
弘法大師は
『性霊集』に、このように遺してくださっています。
「心暗きときは
すなわち遇うところ
ことごとく禍なり
眼(まなこ)明らかなれば、
途(みち)に触れて皆
宝なり」
暗い心では眼は曇り、何もかも良くないことのように映ってしまいます。
本質を見極める眼を見開いて物事を捉えたら全ては宝物なのだと気が付きます。
『性霊集』の編纂時期は835年頃なので約1200年語り継がれているので、真実性があると、私は考えています。多くの人が納得したり、誰かに伝えたいと思わない限り、必ず風化してしまいます。
どんな心で、どんな風に現実を捉えるのか、それによって全てが変わることは、多くの人が言葉を変えて語っていますし、
弘法大師の『性霊集』も今なお読み継がれ語り継がれ、説得性のある名著として現代に遺っています。
今この瞬間を奇跡だと認識する。しかも嬉しいこと、楽しいこと、幸せにフォーカスする。
だから、これからも嬉しい奇跡が連続して起こり続けるし、全ての展開は嬉しい現象の布石でしかない(途に触れて皆宝)なのです。
そういう認識でいる。そういう今を楽しむ。どんどん良くなっていっているのです。予祝しましょう。あり得ないくらい嬉しい奇跡が何の苦労もなくアッサリ起こって、しかも起こり続けて嬉しいことばかり続くなんて。おめでとうございます♪