この前、2009年度の大阪大学の入試問題について書きましたが、今回も大阪大学の入試問題。同じく2009年度で、その第(Ⅱ)問です。
鎌倉幕府の成立について、従来は源頼朝が征夷大将軍に補任された1192年と教えられていたのが、近年では守護・地頭の補任権を公認された1185年へと変わった、なんて話はご存じだと思います。征夷大将軍補任という形式よりも、支配体制の成立という実質を重視した変更ということですが、これと関連する話です。
問題は以下の通り。
鎌倉幕府は承久の乱後、政治的な安定期を迎えた。北条泰時および北条時頼が行った政策をあげながら、その政治の特徴を述べなさい。
鎌倉時代の政治の流れを整理しておきましょう。教科書に即して簡単にまとめると、、
- 前期 源頼朝による、将軍独裁政治。
- 中期 北条氏を中心に、有力御家人の合議による執権政治。
- 後期 北条氏に権力が集中する得宗専制政治。
という三段階に整理できます。北条泰時および時頼の政治ですから、中期の政治の特徴についてまとめさせる問題ですね。北条泰時は源頼朝以来の幕府の先例や武家の慣習をまとめて御成敗式目を制定した人物として、小中学校でも習います。時頼は高校日本史で初めて出てくる人物ですが、教科書には太字で載っている重要人物。受験生には難しいものではないはず。ただ、「北条泰時および北条時頼が行った政治について述べなさい」ではなく、「その政治の特徴を述べなさい」です。
まずは、基本知識の整理から。
〇北条泰時の政策
- 連署の設置(1225年) 北条時房を任命。北条氏の有力者に執権を補佐させる。
- 評定衆(ひょうじょうしゅう)の設置(1225年) 有力御家人を任命。重要政務や裁判を合議によって進める。
- 御成敗式目の制定(1232年) 頼朝以来の先例や、武士社会の「道理」(慣習)を法制化。
〇北条時頼の政策
- 宝治合戦(1247年) 三浦泰村を討つ。幕府における北条氏の地位を不動にする。
- 朝廷の政治刷新・制度改革 朝廷にも評定衆設置。朝廷政治に対する幕府の影響力を強める。
- 引付衆(ひきつけしゅう)の設置(1249) 所領に関する訴訟制度を確立。
- 皇族(宮)将軍の擁立 宗尊(むねたか)親王を迎える。将軍は完全に名目的存在となる。
赤字の言葉について少し説明を加えておきます。
- 連署…執権の補佐です。「関東下知状」・「関東御教書」といった、訴訟の判決などに用いられる文書に執権と並んで署名するので「連署」と呼ばれます。
- 評定衆…幕府の合議機関「評定」で、重要な政務や訴訟について合議・評決する役職です。時頼は評定衆を補佐する役職として引付衆を設置しました。
- 御成敗式目…誰もがご存じのはず。「成敗」というのは裁判のことで、「裁判の規範」という意味。幕府が定めた規定などを集成した、幕府の基本法ともいえる法典です。
- 北条時頼が有力御家人の三浦泰村を挑発し、その一族・郎党500余人を自決に追い込んだ事件です。この事件によって、北条氏に対抗できる御家人はすべて排除されてしまいました。
- 皇族(宮)将軍…言葉通り、皇族の将軍です。宮将軍と書く時の「宮」は「みや」と読みます。鎌倉幕府の将軍は3人だと思っている人も少なくないようですが、実は9人います。3人なのは、「源氏」の将軍です。小中学校では頼朝・頼家・実朝しか出てこないので、こんな誤解があるんですね。幕府は三代将軍実朝の後、京都の摂関家から将軍征夷大将軍を迎えます。藤原(九条)頼経(よりつね)と頼嗣(よりつぐ)です。この二代は摂家将軍と呼ばれますが、北条氏に反感を持つ御家人と結びついて宮騒動(1246年)という事件を引き起こし、幕府から追放されました。そして後嵯峨天皇皇子の宗尊親王が迎えられ、この後、皇族の将軍が惟康(これやす)親王、久明(ひさあき)親王、守邦(もりくに)親王と続いて、これで9人。皇族(宮)将軍の特徴は、完全なお飾りだったこと。10代前半まで補任されて、20代までに解任されたので、政治上の実権は何も無かったのです。摂家将軍のように反北条の核になることを警戒した措置ですね。
さて、これらを通じた「政治の特徴」をまとめなければなりません。どんなことが「特徴」と言えるでしょうか? 手掛かりになるのが、評定衆や御成敗式目、引付衆です。これらは、裁判と、それに関わる法律や役職の整備、とまとめられますね。では、裁判と、それに関わる法律や役職の整備にはどのような歴史的意義があるのでしょうか。
鎌倉幕府といえば封建制度、というのは小学校でも習いますが、そもそも封建制度というのは、端的に言えば、主従関係ですね。主従関係というのは、個人と個人の契約関係です。御家人は所領の所有を保障してもらうこと(これを「安堵(あんど)」といいます)と引き換えに、頼朝と主従契約を結び、奉公をするわけです。これはあくまで、その御家人個人と頼朝との間の契約ですよね。頼朝の政権というのは、頼朝を核にして、頼朝と個人的な主従関係を結ぶ御家人が集まったものです。このような、政権の核になれるような権威のある人物のことをカリスマと言いますが、政治体制を永続させる上では、このような個々人の契約の集積という形での政治運営は不安定になりがちです。カリスマには誰もがなれるわけではなく、特別な資質が必要とされますから。カリスマが死んでしまえば、政権も崩壊、ということになりがちなんです。
では、政権を永続させるためには、何が必要か。北条氏主導で進められた中期の政治、つまり、泰時や時頼の政治は、これに対する回答と言えます。特別な「カリスマ」を持つ人でなくても政権を運営できるように、政治の仕組みを制度化していったわけです。つまり、御成敗式目という法典が制定され、評定衆や引付衆という訴訟制度が整備される過程というのは、言い換えれば、個人と個人の関係にもとづく支配から、法と官僚機構による支配へ、鎌倉幕府の仕組みを作り変えて行く過程なのです。ですから、解答には、泰時や時頼の政策によって幕府の法制化・制度化が進むという視点が必ず必要、ということになります。
裁判といえば、小中学校でも、北条泰時が御成敗式目を制定した目的を習います。定期試験や入試などでも、これは記述式で出題されますね。「御成敗式目を制定した理由を書きなさい」なんていう形で。解答としては、「公平な裁判を行うため」くらいの短文を書けば良いわけです。このように、御成敗式目と裁判の関係については小学校の時から習っているのですが、幕府が裁判を行うことの意味について掘り下げて学ぶ機会はありませよね。でも、中世史の研究では、これは鎌倉幕府の性格を考える上で、とても重視されてきたことなんです。
中世史に関心のある人でなければ知っている人は少ないと思いますが、「東国国家論」という学説があります。鎌倉幕府についての有力な学説の一つで、鎌倉幕府を朝廷から独立したもう一つの国家だとする考え方です。つまり、中世の日本には、朝廷と幕府という二つの国家が併存していた、ということ。この時、重視されるのが、裁判なんです。
どうしてか? 「裁判をする」ということは公権力=国家の権能であると考えられるからです。そして、この前提から、裁判のための制度や法典を整備した鎌倉幕府は、朝廷から自律した公権力=国家である、という主張が導かれるわけ。もちろん、「裁判をする」という事実を「国家」・「公権力」であることと直結させて良いかどうか、これについては異論もあるのですが。
「東国国家論」の立場に立たない場合でも、鎌倉幕府は朝廷から自立して武家独自の政治を行ったのだという理解の根拠として、鎌倉幕府の訴訟制度はこれまで分厚い研究が積み重ねられてきました。このあたりの議論について高校までの日本史(の教育)で教えられることはあまりないのですが、大学の先生にとっては常識ですから、こんな問題も出題されるんですね。
最後に、一応、この程度書ければ良いのでは?と思う答案を書いておきます。
北条泰時は連署・評定衆を設け、有力御家人による合議制度を整えた。また、武家の先例や慣習を御成敗式目として体系化・法制化して幕府の訴訟制度を整備した。これらは法と制度による統治を意図したものである。北条時頼は引付衆を設置して訴訟制度を完成させ、朝廷に対する政治改革要求を通じて幕府の優位を確立した。また、皇族将軍を擁立して将軍権力を有名無実なものとし、有力御家人の粛清を通じて北条氏の独裁体制を強化した。(201字)