今年の冬から春にかけて、熊野古道伊勢路を3回に分けて踏破した。
伊勢神宮から熊野・速玉大社までの170kmの道程は人に何をもたらすのか?

熊野古道の踏破を目指す人にもそれぞれ思いがある。
私の場合は、マラニックレポートの最初に書いた通り、踏破の先にあるものが知りたかったから。
何百年も人々が行き交い、さらには命までかけたその行程は体験なくして感じるものはないだろうと。

そして踏破後に感じたことは。
表現するには、あまりに難しくレポートできなかった。
ただ、記憶が薄れないうちにこのぼんやりとした気持ちも残したいとも考えるようになった。

一言であらわすなら、「感謝」ではないだろうか。
長い時間をかけて、大自然の中を、人々が守ってきた道を歩く。
多くの人々のおかげでこの道を歩くことができる。
自分の存在自体が、無数の人達のおかげであることを感じる。

このように感じるポイントは3つ
1つは、古えの人達の思いも、なんとなく感じることができる。
現代のように舗装道路の整備を始め、店や宿泊所やトイレなども充実してもなお、踏破することは決して楽ではない。
だとしたら、昔の人達は相当な状況である。
そこまでした理由が、自分の頭の中で考えていることと次第に同化してくる気がする。

2つには、この道を守ってきた人たちがいるから現代の我々もここを歩くことができる。
こんな山深い峠の道を何百年も維持するというのはどんなに大変なことであったか。

3つには、古道まわりの地元の人々の思いが伝わる。
峠を越えて見えてくる集落、素朴なその風景は心和むものがある。
現代のようなモノや情報があふれていない当時は、この地元の人々の支援があってはじめて踏破が成り立つ。
今、その支援者に会うことはないのであるが、見て歩くことで感じるものがある。

祈りの道と言われた熊野古道伊勢路、祈りながら歩いているうちに、自分自身が変化し、その祈りの先にある目的に近づいていたのではないだろうか。

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