韓国旅客船沈没事故で助かった命を自ら絶つ悲劇も起きています。
珍島沖の旅客船「セウォル号」沈没事故で救助された安山檀園高の教頭が遺体で見つかった。
18日午後4時ごろ、珍島室内体育館近くの野山で、カン教頭(52)が木に首をつって死亡しているのが見つかった。自殺と推定される。
警察は17日からカン教頭を捜索してきた。現場で遺書はまだ見つかっていない。
安山檀園高は修学旅行中だった生徒と教師の計339人のうち、256人が死亡または行方不明となっている。
(中央日報 4/18)
安山檀園高の修学旅行生の安否が今回の事故で一番人々の関心を集めています。
生徒325人が乗船していましたが救助されたのはわずか75人、残りの250名が死亡もしくは行方不明となっているからです。
引率してきた教師も14人中 救助されたのは自殺したと推定される教頭を含め3名だけでした。
残りの教師は船内に残っていた生徒を助けようとして動き回り、結局帰らぬ人となった事が救助された生徒たちの証言によって徐々に明らかになってきています。
旅客船の船長が乗客を見捨てて真っ先に逃げ出したことが明らかにされ、韓国社会から激しい非難を受けている中で、修学旅行の引率責任者である教頭が救助されて多くの教師と生徒が行方不明になっている状況は、教頭にとっては船長と自分の姿が重なって見えたことでしょう。
勿論、あの事故の現場でどういう状況が展開されたのかは本人自身しかわかりませんが、子供を失った父母たちの行き所のない激しい怒りが引率責任者である自分に向けられてくる事は容易に想像できたでしょうね。
人はこの世に生まれてきた以上、誰でもいつかは“死”と対面しなければなりませんよね。
『トラは死して皮を残し、人は死して名を残す』と言いますけど、同じ死ぬなら沈み行く船上で生徒のため奔走しながら死ねば、彼は“尊敬すべき教頭先生”として永く称えられたことでしょう。
しかし、裏山で自殺しても同情する人はいるかも知れませんが尊敬する人はいないでしょうね。
ああいう極限状態に追い込まれた時に人は本性を顕し、『その人の姿そのもの』が出てくるのだと思います。
今までの自分の生きてきた生き方、行動がそのまま反映される「審判の場」となるのでしょうね。
自分だったらどういう行動をとるのか、考えさせられる一日でした。