「ヨ……ン……」
「ヨン……?」
「ねえ、ヨンっ」
動かないチェ・ヨン。
ウンスを大事そうに抱いたまま
だが、
その瞳を
いつまでたっても
開こうとしない。
あの時、チェ・ヨンは
不安の色を煌めく瞳に隠し
まっすぐ宙を見つめていた。
だが、
自分を見上げる
自分の女の
自分と同じ眼差しの
その瞳にふと気づき
弧の軌道が見えるほどに
静かに
ゆっくりと
瞳を落とすと
自分の胸の中に確かにいる
自分の、女に
見たことがないほどの
穏やかな
優しい笑みを
差し出した。
口元までも緩み上がり
心底嬉しそうな
顔をしている
チェ・ヨン。
先ほどの不安を
打ち消したかのような
その表情。
「これでよいのだ」
と、自分の行く道を決めた
チェ・ヨン。
「これしかないのだ」
「嘘はつけぬ」
「どうしても
自分に嘘は
つけぬのだ」
その言葉を
何度も何度も
自分に納得させるかのように
心の中で繰り返し
そして
「インジャ」
「俺を…信じ…て……」
そう言いながら
再びウンスを
自分の胸の中に
しまい込んだ。
二人だけの世界の
だが
音のない世界へ
ウンスを
伴い
堕ちていった
チェ・ヨン。
「俺を…信じ……て……」
そう言ったのに
その男は
あの草むらに
ウンスを胸の中にしまい込んだまま
大きく跳ね返り
そして
ばさんっと沈み
そのまま。
瞳を閉じたまま
動かない。
あんなに幸せそうだった
あの瞳が
閉じられたまま。
いつしかそれは
頭に力が入り
うねりのある
眉になり
あの分厚くぷるんとした口元も
固く無表情に閉じられたままの
唇になり
まつ毛の間に
微かな光をにじませながら
草むらに
深く
深く
沈みこんだまま
でいる姿に
変わっていった。
ウンスは焦った。
「まさか」
「また、あの時みたいに」
「この人」
「まさか」
「なぜ」
「私と生きるんじゃなかったの」
「ねえ」
「私とずっと、一緒に」
「生きていくんじゃなかったのっ」
「ヨンっ」
「だめっ」
「いっちゃだめっ」
「ねえっヨンっ」
ウンスは混乱していた。
二人であの場所へ
あの時のように
行けるのだと想い
その穴を見つけたと
はしゃぎ
チェ・ヨンに教えてしまった。
「自分が教えた穴が
まさかこんな場所だったなんて」
「自分はいったい
なんてことをしてしまったんだろう」
激しく動揺し
その女に
いつもの冷静さなど
一つもなくなっていた。
「なんとかしなきゃ」
「ヨンを早く」
「起こさなきゃ」
「叩き起こさなきゃ」
「呼び戻さなきゃ」
恐ろしすぎるあの時のことが
脳裏に蘇り
胸が激しく上下する。
不安と恐怖と絶望と孤独と
あふれて止まない涙。
「やだ」
「やだ、ヨン」
「なんでまた」
「こんなことにならなきゃいけないの」
「なぜっ」
「二人で幸せになるんでしょ」
「私を護ってくれるんでしょ」
「私を永遠に護るから」
「そう、言ったじゃない」
ぐしゃぐしゃになった顔で
チェ・ヨンを責めながら
だが、その手は
必死にチェ・ヨンの胸を
押している。
あの時のように。
耳を当てる。
チェ・ヨンの胸に。
だが、その音は弱々しく
聞こえなくなりそうに
なっている。
「いやっ」
「行くなら私も連れてって」
「お願い」
「一人にしないで」
「こんなとこで」
「ねえっ」
「ヨンっ」
息が止まりそうになる
ウンス。
自分の唇は開いているのに
その奥の喉が完全に閉められ
息の行き来ができない。
大声で叫びたくても
声を出したくても
あまりの恐怖に襲われ
乾ききった喉からは
掠れた息しか出ず
まるで言葉に、声に、オトに
ならない。
音にできない叫びを
胸の中で
声にならない声で
必死に、叫ぶ。
その手だけは
確実にその胸を
押しながら。
「この鼓動、いっちゃだめ」
「行くなら私を連れてかなきゃだめ」
「俺を信じてといったじゃない」
「私を見て微笑みながら、そういったじゃない」
「なのに、なぜ」
「閉ざすの」
「その心を」
「私からも」
「閉ざすの」
「ねえ、二人きりなのに」
「なぜ」
「二人しかいないのに」
「なぜ」
あの樹の影から
その姿をじっと見ている
陽炎のような姿をした
チェ・ヨン。
インジャが……
あれほどまでに泣いて
息が止まりそうになるほど
ひくついているのに
なのにそれでも
必死に自分の胸を押している。
まるで、あの時のように。
だが、
あの時のように
ウンスはチェ・ヨンの唇を開き
そこに息を吹き込むことが
できない。
なぜなら
チェ・ヨンの女は
呼吸ができないほど
打ち震えてしまって
いたから。
「インジャ」
「なぜ俺はここから
動けないのだっ」
「なぜ」
「あなたの元へ行き」
「大丈夫です」
「そう言いたいのに」
「脚が…この脚が動かぬのです」
「なぜ……」
「動かぬ」
「なぜ、インジャを抱きしめてやれぬ」
「なぜ、インジャを泣かせているのだ、俺は」
「インジャの呼吸こそが
今にも止まってしまいそうなのに」
「インジャ……」
「俺は……」
「俺は……」
「インジャの側にいたいのです」
「インジャを護りたいのです」
「インジャと二人でいたいのです」
「なのに…どうして……」
「俺は…ここから…動けぬ……」
「どうして……」
その時
チェ・ヨンには
ウンスを慌てて介抱しようとする
チャン・ビンと
ミョン・ノサムと
ヨン・クォンの姿が
見えた。
「二人だけの世界に
お連れしたはずなのに」
「なぜ、あの者たちがいるのだ」
「なぜ、ここまで来るのだ」
「どうして、俺の許可なく
インジャに触れるのだ」
「どうして」
本当は、
そこにその三人の男たちなど
いなかった。
チェ・ヨンが毎日
恐れ見ていた幻想が
ここでもまた
露わになる。
それこそが、チェ・ヨンの恐怖。
自分だけが護るはずの女が
他の男たちに日々
護られている。
自分など、用はない男。
自分は、ただ、束の間の夜
一緒にすごせるかすごせないくらいの
それくらいの男。
日中は、いつもその男たちが護り
自分は
自分の一番大切な女ではなく
他の者を護るしかない日々。
自分が護っているのは
自分の命よりも護りたい
自分の女ではなく
違う者たち。
高麗武士チェ・ヨンにとって
選びたくても選べない
選ぶことなどできるはずのない
現実が
その男を、がんじがらめに
してしまった。
躰が自分の女ではない方に向く。
心は自分の女とともにいたいのに。
躰が、自分の女ではないところにある。
心は、いつも自分の女とともにいたいのに。
ひどい相反を繰り返す
チェ・ヨンの
躰と心。
痛めつけられる
チェ・ヨンの
すべて。
その隙に
自分の女を
他の自分よりも優れている
男たちが
護っている。
「二人を護る」
そう言い
自分の女に寄り添っている
このあまりに残酷すぎる
悪夢のような現実。
初めて恋を知ったばかりなのに、
どこまでもとことんすぎる男には
この現実を
受け止めることができず
ついに行動に移し
結果、こうなってしまっていた。
声が出せないほどに
打ち震え
必死に自分を戻そうと
一心不乱になっている
自分の女、ウンス。
その元へ
「大丈夫です」
とすぐに駆け寄りたいのに
動けぬチェ・ヨン。
自分の女を
助けるために
寄り添おうとしている
そこにはいない
幻のチェ・ヨンにしか
見えない男たち。
「ヨンっ」
ウンスの心の叫びが
チェ・ヨンの心を
わしづかむ。
息など到底できず
その女こそ
真っ青になっているのに
それでもその手は決して
休まず
必死に動かしたまま。
なのに
びくりともしない
チェ・ヨン。
胸を叩く。
拳で叩く。
チェ・ヨンの躰の
横にあった二つの手が
ぴくりと
動く。
その初めての
ここに堕ちてから
初めて感じた
チェ・ヨンのほんの少しの生に
ウンスは
はたと気づき
チェ・ヨンの唇に
触れた。
ようやく
その唇に
自分の唇を落とすことを
思い出した。
「だめっ」
「行っちゃだめ」
「行くなら私も」
「あなたの、あなただけの
世界へ連れて行って」
「あなたが望む
あなただけの世界へ」
「私。我慢してたの」
「ずっと」
「本当は、私こそ」
「あなたと二人でいたかった」
「でも、あなたの仕事だから」
「そうしないと
あなたがあなたじゃなくなっちゃうから」
「だから我慢してただけなのに」
「我慢して仕事してただけなのに」
「我慢して・・た・・だけ・・なの・に」
「なぜ、分かってくれないの」
「あなたがそんなに行きたいなら」
「私行くのに」
「あなたが捨てられるなら」
「私も、捨てる」
「私はとっくにすべてを」
「捨てているのに」
「捨てているのよ」
「あなただけ…だか…ら…」
「私…には…」
「あなただけ…な…の……」
ウンスがずっと隠していた
ウンスのすべてを
チェ・ヨンへの愛の言葉を
告白し終わった瞬間
ウンスの意識は
ついに遠のき
その躰はゆっくり
チェ・ヨンの胸に
ばさん
と堕ちていった。
その重みで
チェ・ヨンの心臓が
動く。
あれほど弱々しかった
その鼓動が
ウンスの躰の重みを
一心に受け
ようやく
蘇った。
「イン…ジャ……」
「インジャ……」
「インジャっ」
「どうしたのです」
「インジャ」
「インジャっ」
ウンスの躰を
逆に揺さぶるチェ・ヨン。
自分の胸の上にある
ウンスの
力のなくなったその躰を
揺さぶり
抱きしめる。
「インジャ」
「すまぬ」
「俺は…知らなかったのだ」
「いや、知っていたのに」
「もしかしたら…と……」
「インジャはそのような方と
分かっていたはずなのに」
「いつのまにか……」
「インジャがそのように
我慢されていたなどと」
「俺は…俺は……」
「インジャっ」
「すまぬ。インジャ」
「だめです」
「インジャこそ」
「行ってはならぬ」
「インジャの気持ち
ようやくはっきりと
分かったというのに」
「どうして」
「インジャ」
「俺はここにいるのです」
「インジャ」
「ここに戻ったのです」
「インジャ」
激しく揺らしても
どんなに呼びかけても
意識の戻らないウンス。
夢を見ていた。
チェ・ヨンの夢を。
「置いて行かないで」
「私を」
「一人にしないで」
暗闇の中で
その先にいるチェ・ヨンを呼び
必死に追いかけている。
だが、その男
チェ・ヨンは
振り返ってくれない。
一人置いて
その先の暗闇へ
紛れこもうとしている。
「だめっ」
「行っちゃだめ」
「一人で行っちゃだめ」
「だめっ」
「でないと」
「私」
「チェ・ヨンがいないと私」
「生きていけない」
「これ以上、我慢なんて
できない」
「だから、行かないで」
手を伸ばすウンス。
闇の中に白く光る手を伸ばす。
その男をつかもうと。
他の男たちを振りはらい
その先にいる
自分の唯一の男を
つかもうと
手を伸ばす。
その時
「インジャっ」
そんな声が
自分の男の
あの声が
微かに聞こえた。
閉められていた喉が
開かれる。
無理やりに
強引に
閉められていた喉に
熱くあの男の匂いのする
熱が降りてくる。
「ああ………」
「ヨ………ン………」
その熱を
チェ・ヨンの息を受け止め
闇に紛れ露と消えようとしていた
その男の手をわずかにつかんだ
その時
その男は
ゆっくりと
振り返り
そして
微笑んだ。
「インジャ……」
「ヨンっ」
「ヨン」
「ヨン」
「ヨンっっっっっっっ」
その男の胸を
叩き割るほどに
小さな拳を
激しく投げつける
ウンス。
「許さない」
「こんなこと、二度と許さない」
「許さない」
「絶対に、許さない」
「許さない」のその言葉を繰り返し
自分のこの厚い胸を
本気でたたき割ろうとしている
自分の女を
骨が軋むまでの
チェ・ヨンにしかできないあの抱擁で
自分の躰の中に
自分の女のすべてを
入れた。
チェ・ヨンの顎を、その頬を
ウンスの髪に
幾たびも寄せ、擦り合わせながら
言う。
あの、声で。
「だって…………俺……」
「許せなかったのです……」
「どうしても………………」
「俺以外の男たちと……」
「俺よりもたくさんの思い出を持ち
たくさんの時を過ごしている
あの男たちと…………」
「インジャがいることが」
「インジャは、俺よりも
あの男たちがよいのでしょう?」
「俺じゃなくても、よいのでしょう?」
「俺がいなくても、大丈夫なのでしょう?」
「俺がいなくても、我慢できるのでしょう?」
「俺じゃなくても」
「俺がいなくても」
「そうなのでしょう?」
「インジャ」
「だから平気でああして
笑っていられるのでしょう?」
「俺があの樹の影から見ているのを
知っていながら」
「知らんふりして楽しんでるのでしょう?」
ウンスは、その言葉に
泣いた。
号泣した。
何も言えなかった。
その、チェ・ヨンの言葉に。
嬉しかったが、悔しかった。
これほどまでに
あの凄すぎるチェ・ヨンが
自分を思ってくれている
そのことが改めてわかり
どうしていいか分からないほど
嬉しかった。
だが、
自分のことをすべて分かっている
と思っていたはずの男が
まだ、あの時と同じことを
言っていることが
悔しかった。
情けなかった。
こんなにまで
必死に虚勢を張って
自分は我慢をしているのに
それを分かってくれていない
自分の男。
あれは、偽の自分なのに
むしろチェ・ヨンの気を引くための
演技なのに
まったく、分かってくれていない。
いや、すべて分かっているのに
信じられなくさせていたのは
やはり自分なのかと思うと
そんなことをした
自分が情けなく……なり…………。
ありえない地で生きている
自分だけが
我慢して辛いのだと
そう思っていたのは間違えで
自分の生きてきた地で
自分の任務に縛られ続けている
その男こそが
幻想と現実の間で苛まれ
躰も心も蝕まれ
自分の躰から心まで
離してしまおうとしていた……
そんなことにようやく気づいた
ウンスは
「私の男は、チェ・ヨン」
「ただ一人」
「あなただけ」
再びその言葉を
自分の男に
言った。
「もう、我慢しない」
「私、本当じゃない自分は
やめる」
「もう、絶対に我慢しない」
「それって、どうなることを
意味してるのか、わかるわね」
「チェ・ヨン」
「それは、あなたの元に
私がずっといるってことよ」
「あなたのいるところに
私がずっといるってことなのよ」
「あなたのいるべき場所に」
「いつも女の私が、いるってことなのよ」
「いいの?それでも」
大きくうなづくチェ・ヨン。
できるはずなどないのに
大真面目な顔で頷く。
なぜなら
その男の頭は
ここ高麗での自分ではなく
天界で生きる自分を
描き出していたから。
二人で寝て
二人で愛して
二人で起きて
二人で食事して
二人で出勤して
二人で働き
二人で待ち合わせ
二人で酒を飲み
二人で手をつなぎ
二人で夜道を散歩し
二人で月を
飽きるまで眺め
そして二人の衣を
二人で脱ぎ捨て
一つになる。
チェ・ヨンの腰の中で
ウンスがまっすぐに
何度も上下する。
チェ・ヨンの瞳を見つめながら
その頬に
その唇に
キスをしながら…………。
そんな夜を一晩中過ごし
明け方の数時間を
白いシーツに包まり
ぐっすりと
互いの幸せな吐息を聴き
確かな鼓動を感じながら
眠る。
そしてまた
新しい日がやってきて
同じことを繰り返す。
チェ・ヨンの脳裏には
そんな二人の姿が
ここにあり
ここにあるはずだったから
あの穴へと消えた。
だが、その前に
その穴は
チェ・ヨンに
この現実を
ウンスの本当の苦しみを
己の苦悩など
とるにたらぬもの
そのことを伝えるために
試練を与えた。
今こうして
再び
ウンスを勝ち得たのは
チェ・ヨン自身。
その男の
真の愛で
取り戻したのだ。
二人のこれからの
生きる道を。
どうしようもない場に
置かれている二人。
だが、その心は一つで
他に誰が居ようと
関係ない。
試練は続くだろう。
だが、今この時の
この死ぬほどの
いや、実際にそうなってしまっていた
その苦しみを
思い出せば
きっと、乗り越えられるだろう。
今度こそ。
この二人は。
そう、そこにある穴…………
あの蒼い草むらが判断し
二人をあの場所へと
送ってやった。
ここではなく
あそこへ。
「行ってこい」
「もうすぐ新しい年がやってくる」
「その前に」
「ここではなく」
「チェ・ヨンとウンスのあの場所へ」
「行くのだ」
「チェ・ヨン」
すみませぬ。
俺がどうかしていました。
俺が悪かったのです。
俺が……。
ですゆえ
これから
今度こそ…………。
いや、これからも
繰り返すでしょう
きっと
同じことを。
でも、だから、
俺なのです。
これが、俺の愛なのです。
ですゆえ
しばし
よいでしょうか
そちらへ行っても。
年が変わるその前に。
新しい年がくるその前に。
大晦日のこの時に。
ーー追記ーー
この話で
それまでの追憶から
ようやく元旦のRain1の前へ
戻ってきました・・・
確か・・そう・・・。