チェ・ヨンは

あの時の二人のことを

想い出していた。

 

自分の邸宅の門をくぐり

 

ほんの少しだけ

静になった

チェ・ヨン。

 

 

自分の腕に

ようやく

自分の妻を抱くことができ

 

その瞳は

久しぶりに

優しく

下がっていた。

 

 

だが

目の端ではなく目頭が熱く滲み

その滲みが徐々に端へと伝わり

上にきゅっと切れ上がったそこから

ほんの少しの楕円を

描くように

 

それは

 

ようやく潤ってきた頬を

また

伝おうとしている。

 

少し、下唇の内側を

上の前歯で噛んでいるような

そんな口元を

見せている

 

チェ・ヨン。

 

 

先ほどの自分の失態を

多分。

 

悔やんでんでいるのだろう。

 

 

ウンスの

ようやく落ち着いた

その表情に

 

穏やかな

包み込むような

あのいつもの

チェ・ヨンの視線を

落としながらも

 

 

唇の中では

密かに

そんなことを

していた。

 

 

ウンスは

何も言わずに

チェ・ヨンの下唇を

 

そっと

 

撫でる。

 

やはり

固くなっている。

 

 

右の中指に

力は入れず

触れるか

触れないかくらい

 

そんな風に

 

チェ・ヨンの

そこを

 

そろり

 

そろり

 

右に

 

左へと

 

撫でていく。

 

 

何も言わない二人。

 

何も話さない二人。

 

 

腹の底が

あの波を打ち

 

その波が

 

穏やかな表情をしている

二人のその顔を

次第に

 

歪ませていく。

 

 

そこには

誰の姿もない。

 

皆、

チェ・ヨンとウンスだけを残し

自分がいるべき場所へと

すっと

オトもなく散っていった。

 

 

分かっている

チェ・ヨン。

 

 

皆の声無き言葉を

解している。

 

 

そして

ウンスも

そのことを

分かっている。

 

高麗で

このチェ・ヨンとともに

過ごすうちに

ウンスもそんなことが

分かる女に

なっていた。

 

 

会話の

ない

二人。

 

 

チェ・ヨンの邸宅の

中庭で

蒼白い月の光を

ただ一心に浴びる

二人。

 

 

 

大晦日を見事に染め上げた

燃えるような空に

黒い帳が

幕を

降ろし始めている。

 

ウンスを抱いたままの

チェ・ヨンは、

 

漆黒のまなこだけで

 

あの蒼白い月を

見上げた。

 

 

これまでの中で

初めて見たのではないかと

いうような

穏やかな顔をしている。

 

まるで

チェ・ヨンの

母のよう。

 

よく見ると

ウンスの母のようでも

ある。

 

チェ・ヨンには

聞こえた。

 

二人の声が。

 

 

 

「もう涙は……よいでしょう」

 

「ヨ……ン………」

 

 

 

 

その声を聞いた瞬間

チェ・ヨンは

 

あの草原の

蒼い草むらに

 

突っ伏して

大声をあげて

一人泣いた

あの時のように

 

声は出さず

 

ただ

 

ただ

 

その喉仏だけを

 

大きく

激しく

震わせながら

 

男泣きに泣いた。

 

 

泣いた。

 

 

その顔は

いつものチェ・ヨンの顔が

分からなくなるほど

ぐしゃぐしゃに

歪み

 

瞳からは

どこにあるのかというほどの

雫が流れ落ち

 

瞳だけでなく

鼻からも

流れ落ち

 

顎から

長くがっしりとした

首へと

落ちていく。

 

 

抱いていたウンスを

二人の樹の元に

静かに降ろし

 

チェ・ヨンは

その地面に

膝を

かくんと落とすと

 

大地に頭を垂れながら

次から次へと

滴り落ちてくる

それを

 

右の甲で

拭った。

 

嗚咽が

漏れでそうになる。

 

 

声を出さぬように

雫を拭っていた

その甲で

 

自分の震えて

止まらない唇を

覆う。

 

噛む。

 

 

ウンスは

そんなチェ・ヨンの

肩にすっと周り

 

そこに

 

自分の胸を

合わせた。

 

静かに。

 

そっと。

 

何も言わず。

 

 

頬を

その背中に

そっと

寄せる

ウンス。

 

あんなに大きく

あんなに頼り甲斐のある肩が

大きく

大きく

震えている。

 

小刻みと

大きい震えを

不規則に

繰り返す。

 

その背中から

チェ・ヨンの

震える声が

聞こえる。

 

声こそ

必死に

抑えているが

 

まるで

子供が

しゃくりあげるように

している。

 

 

この男は

一体

 

どれほどの涙を

流して

きたのだろう。

 

 

それはウンスに

出会ってからでは

ない。

 

その男は

まだ小さい

ほんの小さいころから

 

そんな涙を

流してきた。

 

だが、違う。

 

今は、違う。

 

 

一人では、ない。

 

兄でも、ない。

 

友でも、ない。

 

 

 

そこには

自分が

心底

愛し抜いている

自分の

女が、いる。

 

 

一人震える肩が

どれほど

苦しく辛く

残酷なものだったか。

 

チェ・ヨンは

あの昔には

もう

 

戻れない男に

なっていたのだ。

 

 

チェ・ヨンは

一人、薄暗い部屋で

腰を沈ませ

片膝に

頬杖をつき

鬼剣を持つ男では

 

すでに、ないのだ。

 

 

できないのだ。

そのようなこと。

 

もう。

できない。

 

そんなこと。

 

 

迷いに迷い

底なし沼の

泥沼に落ち

もう

這い上がれないかと

まで

想った

 

戦いに出かけてからの

月日。

 

 

「もう、戻れない」

 

そのことを

チェ・ヨンは

悟った。

 

 

「もう、無理だ」

 

それも、想った。

 

 

だとしたら

 

「なんとしてでも

戻るしかない」

 

「なんとしてでも」

 

「這いつくばってでも」

 

 

分かっていた。

すべて。

 

そんなこと

最初から

かっていた。

 

だが、できなかった

チェ・ヨン。

 

できないのが

チェ・ヨン。

 

 

遠く幻になってしまいそうな

自分の未来。

 

もしかしたら

本当に

幻のように

消えてしまうかも

しれない。

 

そんなことまで

想い

 

そうなったら

自分は

どうするか

 

そこまで

考えていた。

 

なぜか

冷静な

頭で。

 

 

だが、また、

熱い涙が

自分を覆う。

 

寝台の

一人の布を噛み締め

自分の唇と声を

覆う。

 

 

そんな薄い布

すぐに

ぐしゃぐしゃになる。

 

瞳から落ちるものと

鼻から流れるものと

唇からの嗚咽が

そうさせる。

 

ひとしきり泣き

喉をひくつかせながら

辛い眠りに

少しだけ

堕ちる。

 

そんな

迂達赤兵舎での

夜。

 

ウンスの顔を

まともに

見ることもできず

 

この邸宅へ

帰ってみるものの

 

直視できずに

震えきった躰で

また

あの

真っ暗な

兵舎へと戻る。

 

時に

崔家の草原に行き

 

吐き出す。

 

 

そんなチェ・ヨンを

ようやく

王と王妃が

進ませて

くれた。

 

 

 

今、

 

自分の背中に

自分の女がいて

何も言わずに

ただ

頬を

寄せてくれている。

 

 

何も言わず。

 

ただ

寄り添い

頬を

自分のそこに

合わせ

 

「大丈夫」

 

その言葉を

繰り返す。

 

声には出さず

その言葉の形を

唇で作る。

 

「ダイジョウブ」

 

と………。

 

 

その言葉。

 

どれほど

欲していたか。

 

チェ・ヨンは。

 

 

「頑張れ」

 

などという言葉は

聞きたくない。

 

 

「頑張って」

 

などいらない。

 

 

「大丈夫」

 

それこそが

 

ウンスと

出会った時

 

その女が

自分に言ってくれた

初めての

言葉。

 

チェ・ヨンが

ずっと

聞きたかった言葉

 

 

その言葉こそが

チェ・ヨンは

ずっと

欲しかった。

 

 

 

「Rain」

 

ウンスが

ささやく。

 

 

蒼白い月が

出て

空はこのように

晴れ渡っているのに

 

なぜか

ウンスが頬を寄せる

チェ・ヨンの背中に

 

 

ぽつり、ぽつり

 

 

ぽつり、ぽつり

 

 

雫が落ちた。

 

二つずつ落ちる

四つの雫。

 

 

ウンスが

チェ・ヨンの

肩を撫でていた

その腕を

 

天へと

伸ばす。

 

 

もうそこに

雫はない。

 

だが、

ウンスは

伸ばす。

 

細く

白い

その腕を。

 

 

「Rain」

 

 

そう、言いながら。

 

 

 

チェ・ヨンの震えが

少し収まり

 

その男は

 

左の甲で

左の瞳を

 

右の甲で

右の瞳を

ぐいっと拭った。

 

 

そして

腹の底から

長く深い息を

 

「ふぅぅぅぅぅぅぅうううううぅうっ」

 

そう

吐き出した。

 

 

一度下を向き

やせ細り

さらに鋭角になった

顎を

 

あの蒼白い月へと

突き出す。

 

濡れきった

その唇が

微かに

 

動いた。

 

 

 

 

「Rain」

 

 

 

 

 

「Rain………」