チェ・ヨンはチュホンと
ウンスの待つ邸宅まで
呼吸を一つにし
急ぎ駆けてきた。
いつもなら
気のないチェ・ヨンを
チュホンが目的地まで
連れて行く
そんな風情だが
ウンスの元へ向かう時だけは
違った。
まったく勢いを増す二人。
チュホンのたてがみに
唇が触れるほどに
寄り添い
まるで一心同体のように
駆けていく。
だが
二人の後ろに
不思議と砂埃は立たず
むしろ
チェ・ヨンの清廉な匂いが
二人を包む透明な空気の
端々から
高麗の街へと
振りまかれていく。
そんな姿を
見るのが
町人たちは
楽しみで
王宮の方を眺めては
今日はどうなのだろうと
チェ・ヨンの帰りを待つ。
分かりやすいといえば
分かりやすぎて
もはやウンスよりも
町人たちの方が先に
チェ・ヨンの今
この後の二人を
把握しているようだった。
今日は大晦日。
迂達赤隊長は
王の警護でいつ戻るのか。
明日の元旦に向け
今日こそは意気揚々と戻るのか。
それとも
今日もやはり、だめなのか。
最近すっかり元気が無く
顔面蒼白で乾いた唇をして
ほんのたまに邸宅へと戻り
すぐに王宮へと出向いていく
チェ・ヨンが
町人たちも
心配でならなかった。
新年を祝う
ささやかながらの支度の買い出しで
つい先日まで賑わっていた店も
すでに昼前には
それまでの喧騒が嘘のように
凛とした静けさに包まれ
どの民たちも
家族で過ごす
年越しまでのその時間を
手持ちぶたさに待っていた。
そんな時。
王宮の方から
脚音をまるでさせない
チュホンの軽やかに駆ける気配に
はっ
はっ
と
いかにもチェ・ヨンらしい
凛とした
だが若き青年の躍動感あふれる
掛け声が
通りの静けさに
伝播する。
はっとして
家の外に走り出る
町人たち。
あの、チェ・ヨンが
あの、迂達赤隊長が
ようやく
戻ってきた。
おごそかに
だがつまらなさそうにしていた
その顔を
ぱあっと明るい色に変えて
飛び出す町人たち。
畏れおおくも
呆然と立ち尽くして
見るわけには行かない。
頭を垂れねば。
チェ・ヨンは
「そのようなこと
する必要などない」
そういつも
自らウンスの何かを
密かに購入するために
馴染みの町人たちに
言っていたが
そのようなこと
できるはずもなかった。
先祖代々の由緒正しき
崔家の嫡男で
この高麗を護り導く
迂達赤の隊長。
自ら買い物などありえない話で
会話を交わすなど
もっての他であったのに
チェ・ヨンは
そんな町人たちを見ては
笑った。
「何をそんなに怖気付いている」
「何をそのように気を使う」
「俺も一人の民」
「そなたたちとなんら変わらぬ」
そう言い、
「俺の可愛い奥方には内緒だぞ」
と肩をぽんと叩きながら
吟味に吟味を重ね
質素だが
ウンスにそれはそれは
似合いそうな
ものを買っていく。
店の女主人たちは
皆一様に
そんなチェ・ヨンに
惚れて
惚れて
惚れ抜いていた。
そして
自分の夫を見て
深いため息をつく。
「ああ……」
「ああ、とはなんだ」
「ああとは」
男たちもまた
そう自分の妻をいなしながら
「チェ・ヨンには勝てない」
「あの男は別格だ」
と内心
そう思うしかなかった。
強いのに
弱き者には
ありえないほどに、優しく
強いのに
惚れ抜いた女には
ありえないほどに、自信がない。
そんな
不均衡すぎるチェ・ヨンこそが
誰からも好かれる
最大の魅力だった。
いつどこで
敵が見ているかもしれぬのに
隠さず
自分のすべてを
開けっぴろげにする。
誰の目にも
分かりやすすぎる
チェ・ヨン。
だからこそ
ほとんどの者が
その男だけは
信頼し
相対するものも
その男にだけには
結局
正直になるしかなかった。
だが
その男の胸の奥底に抱える
闇は
誰の目にも見えぬほど
深い。
誰も知りえぬ
チェ・ヨンの闇。
ウンスと出会ったことで
その一つ一つが
明るみにさらされ
そして
剥がされつつあったが
まだまだ
これからも
その困難は
続く。
チェ・ヨンは
そう
自身で
分かっていた。
そのことを。
そんなチェ・ヨンが
町人が頭を垂れる前を
颯爽と軽やかに
駆けていく。
「良い年を迎えるのだ」
「皆の者」
「家族で」
「楽しむのだ」
まるでそう言っているかの
ようだった。
その背中とその匂いが。
「あそこでインジャが待っている」
「すまぬ」
「インジャ」
「かまってやれず」
「ずっと泣かせてばかりで」
「すまぬ」
「インジャ」
「すまぬ」
そう、念じながら
目の端に見えてきた
自分の邸宅が
うっすらと
滲んでいく
チェ・ヨン。
細めた瞳から
こぼれ落ちた
これ以上ないほどの
透明な
一粒の
雫。
チュホンのたてがみの
間に
「ぽろん」
と
落ちた。
「ぴくん」
と
再び跳ねる
チュホン。
「まだ、これからだろ」
「まだ、だろ」
「我慢しろ」
「チェ・ヨン」
そうチュホンが
チェ・ヨンに言う。
「すまぬ」
「長かった」
「この道程」
「俺には長すぎて」
「もはやダメかと思うほどで」
「いや、実際にそう想い」
「どこかへ消えてしまい・・・たか・・・」
「ヨンっ」
チェ・ヨンが言葉を続けようとした時
ウンスの
チェ・ヨンを呼ぶ声が
チェ・ヨンの心臓を
ぎゅうぅぅぅぅ
と握りしめた。
「ヨンっ」
「ヨン」
「ヨン」
「ヨンっ」
ウンスの声が
泣き叫ぶ声に変わり
どんどん大きくなり
チェ・ヨンの邸宅の門の外に
自分の命
そのものの
自分の
自分だけの
女
ウンスが
裸足で飛び出してくるのが
チェ・ヨンの視界に
映った。
チュホンの背中から
砕け落ちるように
降りる
チェ・ヨン。
自分の女が
自分を求めて
あのような姿で
駆けてくる。
自分の元へと。
敵がいるかもしれぬからと
絶対に邸宅からは
一人で出るな
そう何度も何度も
言い聞かせてあるはずの女が
後ろから
慌てて
追いかけてくる
女戦士たちと
ミン・アンを
振り払うように
すごい
勢いで
駆けてくる。
「ヨンっ」
「ヨンっっっっっ」
「インジャっ」
チェ・ヨンは
あの長い脚をもつれさせるようにして
一足飛びに
ウンスの元まで駆け
そして
その女を
ふわりと
いとも
大事そうに
抱き上げた。
「インジャ」
「ヨンっ」
雫を絡め合いながら
ひしと
抱きしめ合う二人。
頬を
何度も
何度も
擦り合わせる
二人。
ひとしきりそうして
抱き上げられた躰のまま
ウンスはチェ・ヨンの頬を
冷たく乾ききった
両手で包んだ。
その瞳を
同じように
濡れそぼる瞳で
一心に
覗き込む。
「帰って…きてくたのね」
「私の…元……へ」
「はい」
「もう、大丈夫なのね」
「はい」
「泣かないのね、もう」
「はい」
「今日は私と二人で……」
「いてくれるのね」
「はい」
「今日は……」
「二人で…は…だ……を……」
「インジャ」
「その先は」
「言わずともよい」
そう言うと
チェ・ヨンは
邸宅の門の前だというのに
自分の女の顎を
右の人差し指と中指
そして親指で
くいっと持ち上げ
あの
チェ・ヨンの
チェ・ヨンにしかできぬ
吸引キスを
した。
ちゅぅぅっぅぅぅぅううぅうぅぅ
いつまでも響きわたるそれ。
町人たちは
家の中へと
入っていった。
チェ・ヨンとウンスの姿など
とおに見えぬほどの
はるか先にある。
だが、その匂いとオトが
舞い流れ
男たちは
自分の妻の肩を
ぎゅっと
抱いた。
「新年を迎える準備」
「整っているな」
「今宵はもう食べて寝るだけだ」
そう
言いながら。
離しませぬ
今宵
俺は
いや
未来永劫
俺は
インジャを
決して。